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不安が人間の初期設定 【思考の補助線】 PTSD うつ病 脱感作ではなく馴化の再構築を目指すべきなのではないかということ|対人関係学

 

要約すると、「人間は知能が高いために、将来のことをイメージでき、悪いことが起きる不安もそのために持ってしまう。初期設定は不安を感じるというものだけど、人生経験で、良くないことが起きないということを経験すると不安が感じにくくなる、つまり馴化(じゅんか)する。しかし、自分が危険な目に合ったり、自分以外でも共通項を持つ人間の不幸を見ると、馴化が崩壊する感作(かんさ)が起き、具体的な危険の兆候もないのに、漠然とした不安をもってしまう。現代社会は特にこのような不安を抱きやすい。しかし、特定の人間関係で安心感を与え続けることで、馴化の再構築が起きて、不安を感じんにくくできるのではないか。」ということでした。

こちらのブログの記事は、家庭での具体的方法です。

 

では、家族の中に不安に敏感な方がいる場合にどうするかというお話を始めます。

 

<対策1 不安を抱く家族に対する心構え 虚偽DVの正体>

 

先ず、「その人が不安であること」を嫌がらないで受け止めるという心構えが大事です。誰かが悪い方悪い方に考えてくよくよとしていると、それをそばで見聞きする方は嫌な気持ちになるものです。自分の安心も感作されてしまいそうな気持になってしまいます。人間も本能的に自分を守ろうとするので、相手の不安に引きずり込まれないように身構えてしまいます。それが、相手にとっては、自分の不安を否定されているような気持にさせてしまうわけです。家族の中でも、自分は孤立するというもう一つの不安を具体的に感じてしまうことになります。自分が否定されたような感覚になってしまいます。

離婚訴訟などで、実際はDVが無いのに、DVがあったという主張がなされることがあります。具体的事実が主張されず「DV」があったなどと主張されることが多いのですが、多少具体的な事実を主張するときもあって、つまりいつどこで誰がどうしたという主張ですね、その主張を見た方は、「大げさに言っている。」とか「これは心当たりがない。」ということで、そのDV主張は虚偽の主張だ、でっち上げだと言って争いになっていくわけです。虚偽DVを主張しているという言い方もあるわけです。

しかし、主張する本人は自分の人格を否定されたと本気で思っている節がある場合も多いのです。そのギャップを埋める論理をいろいろ考えていたところでした。

この家族の不安に巻き込まれることを本能的に拒否することが虚偽DVの正体であることが多いことに気が付きました。不安を感じている人にとっては、不安を感じている自分を気づかわれないということ、不安を感じたふりをするのをやめろと言わんとする行為をされることを感じると、自分が否定された、自分をまともな人間とみていないのではないかと感じるようです。その行為が、たとえ親切からでも大きな声で注意したとなれば、自分が罵倒された、大声で脅迫された等と主張する出来事になってしまいます。後ろ向きなグダグダした話を聞くのが嫌で眉間にしわを寄せるということは、意識しなければしてしまうことです。しかしそれをすると、相手方は自分を汚いものでも見るように見られたと感じることが多いようです。

不安を感じるのは必ずしもその家族が弱いからではないと考えるべきです。細やかな感性を持てば、不安を感じやすくなるということと受け止めるべきではないでしょうか。現代社会はそういう社会なのです。

家族なのだから仕方がないと受け止めて、一緒に心配する言葉をかけてあげる。「ああそうかもしれないね。」ということでしょうか。こういう心構えをすることを先ず意識することが大切です。

 

<家族の不安を解消させる方法 言葉を発すること>

 心構えの次は、具体的な方法論です。一言で言えば言葉がけをルーティンのように行うことです。不安を抱いている家族に対して肯定する言葉、評価する言葉、感謝する言葉をこまめにかけるということです。そして、不安を否定しないこと。「ああ、そう言うこともあるかもしれないね。」ということは言えるのではないでしょうか。「そんなことないよ。気の迷いだよ。」ということは、自分の気持ちを否定されたと感じますからくれぐれも言わないように注意です。

なによりも大事なことは心ではなく、言葉であり行動です。心は相手に伝わらないということが、これまでの仕事上の実感です。でも言葉は相手に届きます。その言葉が相手を肯定する言葉であれば、相手は安心することができます。安心を積み重ねていくことで崩壊した馴化を再構築することが可能になるように思われます。

外の社会はいろいろあるけれど、家族の中にいるとなんとなく楽しい。家族は自分を尊重している。どんなことを言ったって、どんなことを思ったって、それを受け入れてくれる。自分を受け入れてくれると感じさせる言葉を聞くことが癒しになるのでしょう。それを感じれば生きていけるということならば、どんどん言葉をかけるべきです。

一つ安心を覚えると、どんどん馴化の再構築が進むとは考えられないでしょうか。この作業は、不安を抱いている家族にとっても、ご自分にとっても他の家族にとっても、プラスこそあれ、マイナスはないと思います。

 

ただ、やり馴れていないことなので、もしかしたらばからしいと感じるかもしれないし、それによって別の家族が不愉快になるかもしれません。そこは、チーム力で解決するべきです。それぞれの家族がいないところで、「これこれこういうことだから、私がこう言ってもあの人の不安を解消するために行っていることだからわかってね。」と打ち合わせをしておくことは大切でしょう。

 

くれぐれも、大きな声を出さないこと,励ますからと言って乱暴な言葉を言ってはいけません。すぐに発言する必要はありません。考えてから言っても良いです。それからくれぐれも嫌な顔をしないこと。眉間にしわを寄せないことです。

 

それとて最初は結構きついことかもしれません。それでも、やっているうちに自然に言葉が出てくるようになります。ことさら心を込めて言おうとしなくても、受け止めること、言葉を発することで十分です。言い馴れていくうちに心が付いてくるものです。心後からついてくるものだと思っています。

 

但し病的な不安の場合は、お薬が効果的な場合が多いようです。30年前と比べても、有効で安全なお薬がだいぶ増えました。苦しいこと、不安なことが異常なのではないから、そこを治療するわけではないということを頭に入れてください。少し痛みを抑えることによって自然治癒力が回復することが期待できるのです。お薬はそのお手伝いだという意識も浸透してきました。端的に投薬治療の必要性を提案するべきです。その際、感じることがおかしいのではなく、そこはむしろ理解できることを告げることが第一です。そして、その感じ方が強く続きすぎるので、少し休む必要があるのではないかというアプローチが有効だと思います。たくさんのうつ病の人を見てきたのですが、薬の効果が大きい人ほど、依存症になりにくいという妙なパラドクスを感じています。

 

こういうルーチン活動を行うということが優しさということでよいのだと思います。励ますのではなく、そう言うこともあるのかなという程度の共感と、否定しないということ、声をかけること、心配していることを伝えることですかね。

もしかすると、それが人間として家族と一緒に生活するということなのかもしれません。

 

 

離婚訴訟などで、共同親権を拒否する言い分として一番多いのは、どうやら「父母間での協議が不可能」というものになりそうだ。共同親権の出発段階から消極というか、積極的に否定に回っていたマスコミや左派は、ここを大きなポイントとして、実質的に共同親権を骨抜きにしようとしている。法改正の際、このことについては想定できていたことなので、選択的共同親権等という言葉が出て、推進派がそこにかみつかなかった時点で半ばあきらめかけていたが、実際に仲の良い親子が引き離されそうになるのを見るとあきらめてもいられないという想いが強くなっている。

共同親権の実務運用のありかたで今取り組んでいることは前回書いた。今回は、共同親権制度を定着させるためには、日本の私たちの考え方自体を改めることが地固めになるという、いささか大言壮語になる。でも、それはとても大切なことだと、この仕事を通じて感じていることである。

 

1 善人、悪人という人間はいないということ

2 二項対立に陥らず大人になること

3 家族という寛容、慈しみの価値観を取り戻すこと

ということを駆け足で述べたい。

 

1 善人、悪人という人間はいないということ

 

共同親権を拒否して単独親権を主張する同居親の主張は、「自分が善人で相手が悪人だ。」ということに尽きる。当事者がそう感じていることはやむを得ない側面があるが、代理人である弁護士も、そのような絵面の主張を展開する。

しかし、生まれながらの善人と悪人がいるなら、その二人が結婚なんてしないはずである。結婚後変わっていくことは仕方がないし、お互い様である。

一人の人間が他者から受け入れられないふるまいをするようになることには、相手にも要因があることがほとんどである。但し、他者が悪いかどうかということは、別問題である。相手が工夫することによって、相手と共存しやすくすることができるということを言いたい。相手との関係以外のその人が置かれた状態が、その人の行動傾向を大きく左右する。そう言う時こそ、家族が助け合う工夫ができれば、危機があったとしても乗り越えることができてくるものである。

だから、一方が一方的に悪い、他方を一方的に圧迫するという主張は、本来説得力がないはずだ。しかし、DVという曖昧模糊な言葉が、この自明の理を曇らせてしまっている。

一方的に悪人とされた方は、「お前こそ悪人だ。」という自分の首を絞める主張を極力排し、多くの二人の時間が対立していないことを具体的な例を挙げて主張することに精力を注ぐべきだと思う。相手の主張する事実の否定よりも、反対事実の存在を充実させて、全体像を浮かび上がらせることが上策だと思う。そして、「自分は悪くない」ということを繰り返すのではなく、「もう少し、こうすればよかった。」というようなことも挙げていくべきだと思う。

「どっちが悪い」という議論は、同居中殺伐とした対立状態がベースだったということを結果として認めているようなものである。

あくまでも常識で考えるべきであり、どちらが悪人か、どの程度悪人かという思考パターンは既に相手の土俵に乗ってしまっている。このような極端な主張は、第三者の判断者はそのような特殊事情の有無があるかを常識に照らして考えるようになってほしい。どちらも普通の人間だという主張が説得力を持って迎えられなければならないと考えている。

 

2 二項対立に陥らず大人になること

 

善人悪人の話だけでなく、現代社会はあらゆるものを二項対立させる幼稚な論調に支配されているように思う。象徴的には勧善懲悪という、戦前は子どものものとされた論調が支配的である。マスコミも、一部政治勢力も、是々非々という言葉を知らないかのように、反対勢力を批判し、重箱の隅を鬼の形相でつついている。その論調に乗って心を揺り動かす人々は、悪を見つけ出して、悪であると叩くわけである。政治的には、多数決政治の土台を形成し、民主主義を形骸化している要因となっている。

物事にはいろいろな側面がある。ある側面だけを見たら悪であっても、別の側面を見れば善であることがほとんどである。現代の論調は善の側面を無視して、悪の側面だけをクローズアップして悪だと批判しているように私には感じられる。

善悪二元論という幼稚な論調を排斥する大人が増えなければ、このような不合理に個人が苦しめられる事態は続いていくと思われる。そんなに難しいことではない。少し、時代をさかのぼれば、日本人の大人はみなそのように複雑な人間像、人間関係を理解していた。

 

3 家族という価値観を取り戻すこと

 

善悪二元論を克服し、大人になるためのトレーニングは家族との関係の改善である。家族に対しての働きかけの工夫を意識的に行うということである。現代の子どもじみた人間たちは、子どもの時代の自分が親に対してする態度のように、自分のパートナーや子どもに対しても、気に入らないか否かという二元論で接しているのではないかと家族問題に取り組む中で強く感じている。

大人になるということは、家族全体が安心して生活するために、自分が役割を発揮することではないだろうか。「安心」とは、「自分に不十分なところがあっても、欠点があっても、失敗しても、家族は自分を見放さないで家族として受け入れてくれるという実感を持てること」だ。これが無ければ赤ん坊は無邪気に泣くことすらできない。不合理であっても、信義に反することをしても、自分だけ特別扱いされたいとしても、寛容になるのが家族だと今は思っている。張り合うことがあれば負けてあげるのが家族である。それを感情的になったり、大声を出したりして、相手の間違いを糺そうとしては、家族は成り立たない。

子どもをはぐくむ、家庭を心地よいものにするということは、現代ではあまり価値を置かれていない。このことに危機感を持たなければならないと思う。女性も働かなければ輝かないという論調は、保守も革新も共通のように聞こえる。もっとも家事育児をになうのは、その家族において決めればよいことで、女性だけが専業主婦にならなければならないということはない。また専業主婦(夫)は、家族のことだけをしなければならないということもないはずである。

家に帰って、相互に安心を与え合う家族の大切さ、人間の命に豊かさを与えるかけがえのないものだという価値観を取り戻すことが必要だと思う。そして、最も弱いものに視点を置いて、人間関係を作っていくという日本的な意識が必要だと思う。

そういう社会的風潮が無ければ、「子どもの健全な成長」という言葉は単なる枕詞になってしまい、家庭裁判所においても声の大きなものが勝つという危険性がはびこり続けることになってしまうだろう。

 

 

1 共同親権か単独親権かの争点

 

令和8年4月から共同親権制度が始まった。当事者で共同親権を採用するかどうかを判断できることになり、意見がまとまらなかった場合は裁判所が判断することになった。

 

共同親権が認められる要件の中で、もっとも争いのポイントになるのは、「父母間で親権行使について協議が可能な状態にある。」という要件である。

同居親は、「二人の間で協議はできない、別居親が常に自分の意見を優先して、自分の意見を少しでも否定されると、大声を出したり、理詰めで自分の意見を押し通そうとしたりする。だから、協議は不可能である。」という主張をすることになるだろう。

 

これに対して、別居親がどのように反論をするべきなのか。

 

先ず、最悪、自分の首を絞めるオウンゴールともいえる反論は以下の通り。

「同居親は、子の親権行使についてさえ、根拠なく、感情的に判断したり、他人の意見をうのみにして自分で考えない。子を連れ去ったように自分の利益をこの利益に優先させようとする。」

という、相手の判断力が信用できないという主張をすることだ。特に利害関係のない人であれば、これは論点がずれているということにすぐ気が付くと思う。しかし、当事者は、単独親権にしてはならないという観点から反論をしてしまう。これでは、「協議不可能」という認定がなされてしまい、同居親の単独親権になってしまう。日本の家庭裁判所の判断はそういうものである。

 

ここには、以下の論理の構造がある。

①単独親権とするのか共同親権とするのかという論点があり、共同親権が不可能であれば単独親権とする。同居親は話し合いが不可能であると主張し、別居親は話し合いが可能だという主張立証をしない。だから単独親権だろう。

②単独親権とした場合、別居親の単独親権か同居親の単独親権かなのだが、現在子どもに悪い影響が出ていないのなら、同居親が親権行使することを否定する理由は裁判所にはない。

③だから同居親の単独親権とする。

というものである。

 

別居親からすると何のための共同親権制度かわからないということになる。これは目に見えている。

 

上記の論理②についても、克服するべき今後の課題だが、本来、共同親権制度とすることによって止揚することが期待されてきた問題である。選択的共同親権制度に落とされた効果が表れていると言えるだろう。さも共同親権に理解があるふりをして、声高に選択的共同親権を唱えていた政治家の顔が目に浮かび苦々しく思う。

 

ただ、共同親権制度は、子どもが両親の愛情を実感することによって、健全な成長を図るための制度である。この趣旨を踏まえて、裁判所が関与して決める場合は、単独親権はごく例外的な場合に限定されるという運用を目指していく必要があり、それは今ならばその流れを作っていくことが不可能ではないかもしれない。そう思って、これを書いている。

 

2 別居親が主張、立証するべきこと

この議論においては、別居親は父母の協議が可能だという主張立証をすることになる。

1)夫婦の同居中も議論できていたという主張立証

  同居親は、自分の意見を否定されたことが強く記憶に残っている。夫婦として何年も同居したのであれば、そのようなことが何回か起きることは当然である。

①いつもそうではないこと。

②別居親が同居親の意見に従った実例 録音テープなどなくても主張をするべきだと思う。但し、例えば旅行の行き先など、どちらの意見に従ったかについて、現時点となっては正反対の記憶があることも珍しくない。その結論に行きついた経緯などを主張立証することになる。

③例外的な場面でも、それほど激しい否定をしていないということなら、それも主張立証するべきだ。

2)反省点を踏まえて改善すること

必ずしも、協議ができなかったわけではないが、今後はさらに同居親が意見を出しやすくするために、別居親がやるべき具体的な行動を提案する。例えば、自分の意見を言う前に、相手の意見をじっくり聞く。反対賛成の意見を言う前に、メリットデメリットを共有する。相手方の意見のメリットに共感してから自分の問題の所在を話し始める。大声を出さない。声が大きくなったら相手の意見に無条件に従う。等である。

3)共同親権行使の内容を具体的に提案して、相手に安心感を持ってもらう。

例えば、居住先、氏の他、習い事とか、進学先等については、原則として同居親の判断を優先することにしますよと提案する。但し、決定前に、その判断を示し、別居親がそのデメリットについて懸念を述べる機会を与え、その後に決定をする等である。どうせ、同居親との生活が続くならば、同居親の氏になるし、居所指定権を争っても仕方がないと割り切ることができれば、その当たり前のことを恩着せがましく主張するべきである。協議をする事項を極力減らし、原則同居親の判断を尊重するという姿勢を示して、このような協議であれば協議が不能とは言えないと主張するわけである。

4)監護権、居所指定権が別居親になるのであれば(すなわち現在の別居親と子どもが同居する場合 ややこしい)、最大限同居親の子どもとのアクセス、面会交流の機会、その他の口出しの歓迎等、理想的な共同親権の行使を同居親として許容するプランをなるべく具体的に立てるということを試みる。単独親権が許容される可能性は限りなく低いが、相手方の主張と際立たせるという戦略的な狙いもある。また、それでも一緒に住めれば万々歳という本音であることが多い。

5)約束に反した場合は、同居親は別居親の代理人に直接抗議をして、事態を改善するよう別居親に促すことができることとする。

3 弁護士はどのように法的主張をするべきか

  さて、いよいよ、最大の争点であるところの、別居親は父母間の協議が可能だと主張し、同居親が不可能だと主張した場合に、裁判所がどのように判断するべきかという法的主張を弁護士はどのように行うかという点について考える。

この点について、拙論を参考にして主張をしてほしいという厚かましいことは考えていない。子の健全な成長を図ることを父母の感情よりも優先しようという心ある法律家の方々の議論を促すきっかけになれば幸いであると考えている。

考え方は、先ず、立法趣旨から考えるべきである。

子の健全な成長を推し進めるために離婚後の共同親権制度は創設されたという趣旨から議論を出発することがセオリーであろう。そして、共同親権が法の原則であることを主張していく。

そうだとすれば、単独親権になる場合はごく例外的な場合であり、協議をすることによって、客観的に一方の親なし子の安全が脅かされる場合であることが必要であると考えるべきだ。

親の安全が脅かされる場合とは、暴力や脅迫等強い心理的圧迫がなされる蓋然性がある場合に限られると論を進めるべきだろう。

そして、心理的圧迫の蓋然性の有無については、同居中の状態、別居後の状態、共同親権についての主張の内容、今後の共同親権行使の方法についての見解等から判断するほかはないと思われる。逆に言うと、この結論に至る主張を立証をするべきだということになる。特に証拠もなく、心理的圧迫の蓋然性があると主張する場合は、協議が不可能とは言えないという運用がなされるように努力するべきだと思う。

 

最後に余計なこと

裁判所でDVが主張される離婚事件の多くでは、実際に暴力や脅迫があるケースはめったにない。これは私一人の感想ではなく、多くの弁護士の共通認識である。ただ、主として夫が正義や論理で妻の発言を否定することが多い場合、あるいは妻の失敗、欠点、短所を逐一指摘することをやめられない場合は、それを盛って、一方的なDVがあったと主張されるという傾向にあることが実際である。暴力や脅迫が無くても、一緒にいることが耐えられなくなる場合は、案外存在する。感謝や謝罪、気遣いの言葉が無い場合も同様である。

もっとも、夫の行為だけが妻の連れ去りの原因になるのではなく、多くの女性が出産や年齢的な変化、心身の状態によって不安を感じやすくなっていることで、それまで気にならなかったことが気になるようになったということが実際であることもよく見ている。

しかし、自分は間違っていないという態度に固執するのではなく、相手がかたくなな態度をとる原因を虚心坦懐に考察して、相手が何を言ってほしいかということを真剣に考えて言い当てるという努力をするべきである。それが子どもの健全な成長につながることは間違いない。