そして、やっとこ話は【経緯1】へと繋がるのである。話がクソなげえよ俺。

 

会社を閉めることになって精神的にキツかったのは、閉業そのものよりそれを「お客さんや親しい者たちに伝える事」だった。むしろそれを避けたいという気持ちこそが、ジリ貧なこの仕事をダラダラ最後まで続けてしまったホンネと言えるかもしれない。

「2月いっぱい」という期限がある以上、すぐに各方面への連絡が必要となった。3月以降うちで車検を受ける予定の人は少なからずいる。彼らに電話で事情を説明し、または会って謝罪して、別の車検先を紹介しなければならない。先方への引き継ぎ依頼も必要だ。仕事をくれていた元請や取引先にも早めに伝えておかないと迷惑をかけることになる。終わってない支払いを済ませ、リースは次の支払いが来る前に解約。これらの連絡はかなり自身の精神にクる作業だったので、せいぜい一日3件こなすのが限界だった。

閉業を告げると彼らは一様に驚き、狼狽し、それでもこちらの事情を汲んで受け入れ、さらには今後の俺の身の振りを心配してくれた。気を遣わせてしまうことがとてつもなく心苦しかった。

最も悩んだのはナナとタケにどう伝えるか?ということである。二人はまだ未成年の多感な時期にあり、親の経済力に依存・扶養される立場の者である。50も越えた父親の突然の失業は大きな戸惑いと不安を与えることになるだろう。それは父親として慚愧に堪えないことであり、今までエラソーにしていた立場としてはぶっちゃけ何より「カッコ悪い」ものだった。自分が情けなかった。

───でも、そんな俺を救ってくれたのは、やはりその家族だったのだ。

タケは、ヨメが義母と電話で話している場にたまたま居合わせたことで会話内容から察することとなり、その流れでヨメからの説明を受けたようだ。納得したというよりはコトの重大さをあまり理解していないのではないかと思う。

ナナは下校途中でたまたま工場に寄ったある日、終業後の事務所で二人きりになった機会に俺から告げた。気を付けたことはとにかく「不安を与えない」ことだったが、普段おちゃらけてる姿しか見ていない父親のただならぬ雰囲気は察するに余りあるだろうし、驚くなと言う方に無理がある。それでもナナは、「心配すんな。大丈夫だから」という根拠に乏しい父親の言葉を「うん、わかった」と努めて冷静に受け止めてくれた。そんなところも母親そっくりだと思う。

そしてその後の我が家の日常生活は、本当に何も変わらなかったのである。いつも通りコテコテのボケと辛辣なツッコミが応酬する、まるでコントのようなお笑いの日々。それがズタズタな精神状態だった俺にとって何よりも救いだったのだ。

 

 

さて、それはさておき仕事もまだまだ残っていた。

既に予約に入ってる車が3台、リフトで大規模修理中のBMW、そして次々と新しい問題が発覚する俺のMC-1。また、そろそろスタッドレスからノーマルに戻す季節である。ウチでタイヤ交換したお客様の車だけは店を閉める前に責任もって戻し、今まで預かっていたタイヤもお返ししなければならない。

つくづくもっと早くに閉業を教えて欲しかったと思う。この一ヶ月で片付けるにはギリギリの仕事量だ。またこういう時に限って飛び入りの依頼は次々と入ってくるのである。はるばる大阪からの2度目の入庫もあった。一度は断りかけたが、「やれるだけやってみよう」と無理やり請け入れた。

こうして最後の一ヶ月は本当に慌ただしく過ぎていった。とても次の就職先を探す余裕など無かった。

責任は重く、その割に儲からず、「何のために働いてるんだろう」と思うことも多かった。そんな日々とはもうすぐオサラバ。この仕事にはもう何の未練も無いと、この時は思っていた。ただこの最後の一ヶ月間で、塗装後のパネルを磨きながらふと(このポリッシャー使うのはこれが人生最後かも知れないな)とか、余ったボルトやクリップをストック箱に入れようとして(あ、もうこれらを再使用することも無いんだから意味無いやん)など、日常の何気ない節々に少し切なくなる瞬間が何度かあった。

熔材屋さんが「古くなった溶接ガスタンクの更新を」と案内チラシを持ってきた。苦笑しながら「ああ、もう必要ないんで」と応えた。つくづく絶妙なタイミングだな、と思う。いろんな意味で、やっぱりウチは丁度良い「潮時」だったのだ。

 

予告通りの2月29日をもって、弊社は50年の歴史に幕を下ろした。

これ以降はもう仕事は一切受け付けられないが、私物の運び出しや 書類・鉄屑などの廃棄処分、設備や工具類の売却などの「後片付け」をするために出社する日々は続いた。ヨメには本社から「残務処理のために半年くらい残って欲しい」との申し出があったため、少なくともそれが終わるまでは事務所の電気も電話もネットも使える。PCでデータ整理しておきたい案件もまだ残っていた。

自動車税の時期が迫っていたので、最後のゴミ出しや運搬のためのトラックだけを残し、積載車を含む他全ての代車を廃車・売却した。よく働いてくれた積載車や、車椅子リフト「ライラック」のデモでいくつかのイベントに共に出動したヴォクシーとの別れはやっぱり寂しいものだった。リフトやコンプレッサなどの設備はもう引き取り手が決まっていた。溶接機やチェーンブロックなどの鈑金機器も殆どを売った。自分の相棒のような存在だったモノたちがトラックに載せられてドナドナされていくのを見送るのは、やっぱり辛いものだった。

 

前にも一度書いたことがあるが。

人はギリギリまで諦めが悪い生き物である。

愛する者が死に、冷たくなっていく。医者に臨終を告げられ、茫漠とした気分のまま葬式の準備をし、棺桶に納められた遺体を目にしてもなお「何かの奇跡でも起きて生き返るのではないか」という愚かな期待を、心の片隅にいつまでも手放せないでいる。少なくとも俺はそうなのだ。

しかし同時に「人間の脳細胞は酸素の供給が止まった瞬間から徐々に死滅していき、一定時間経過してしまったらもう再起は不可能で仮に息を吹き返したとして障害が残る」ことも知識として知っている。つまり「引き返す」にもタイムリミットがある。ゲームのコンティニュー画面のように。

工場内の整理を進め、一つまた一つと工具が、設備が引き取られていく。弊社を「鈑金屋」として構成していた幾つかの飾装が次々と剥ぎ取られていく。そして積載車や溶接機などが消えて”もう鈑金屋には戻れない”最終ポイントを超えるその瞬間まで―――「もしかしたらまだ引き返せる?」と、実は無意識に考えていた自分自身に気付き愕然とした。

未練がない?よく言うよ。

諦めきれないでいたんじゃないか。

 

 

 

 

でも、もう引き返せない。

引き返さない。

 

 

 

 

(続く)