車が売れない不況下、ディーラーは今まで販売ばかりに目を向け殆ど力を入れていなかった整備部門で食い繋ぐ必要が出てきた。そして鈑金部門がある本社以外の支店では基本「外注」だった鈑金の仕事も、「他所に出してる場合じゃねぇ!」と見直されることになった。

ディーラーの鈑金内製工場の誕生である。広い土地を買って大きな鈑金専門工場を建て、県内各支店が請けた鈑金の仕事を一か所にまとめて自社内で捌くというわけだ。

就職後最初の一年を過ぎた頃、本社鈑金部門を丸ごとこの「新工場」へ移転する話が出た。最新設備を整え、スタッフも大幅に増やしての新スタートである。その広大な敷地は新車プールも兼ねており、何台もの積載車が出来たての新車や各支店からの事故車を積んで絶えず出入りする賑やかで忙しい場所となった。仕事を取り巻く環境が一変したのだ。

 

しかしこのディーラー内製工場の出現は、俺の実家を含む「町の鈑金屋さん」にとって死活問題だった。下請けとして仕事の大きなシェアを占めていたディーラーからの入庫が、一気に絶たれるのである。実際、不況で既に苦境に立たされていた何軒かの鈑金屋はここでバタバタと潰れていった。親父の工場も永年育んできた各支店との信頼関係のおかげで幾分マシだったとはいえ、やはりディーラーからの仕事は半分以下に減っていた。

これについてディーラーを責めるつもりはない。ディーラーも大変だったからこそ生き残るための措置であり、下請けの仕事が無くなったら立ち行かなくなるような鈑金屋は企業として健全とは言えない。それは隷属でしかないからだ。岩本鈑金はディーラーの下請け工場という立場に甘んじることなく直需の顧客獲得にもっともっと早くから手を打っておくべきだった。実際、新装開店以降十数年、岩本鈑金は表看板すら存在しなかったくらいなのだ。だから初めて来社するお客様は誰もが「あの…ココって、鈑金屋さんですよ…ね?」と、恐る恐る訪ねてきたものだった。直需のお客様に対してのアピールがまるでなっちゃいなかった。”過ち”はとうに始まっていたのだ。

しかし親父を責めるつもりもまた、無い。直需なんか少なくてもディーラーの下請けだけで十分食っていけた時代が確かにあったのだから。俺が親父の立場でもひょっとしたら同じ道を歩んでいたかもしれない。バブルの崩壊はあまりにも突然で、殆ど天災のようなものだったのだ。

 

俺がディーラーを退職し、実家に帰って岩本鈑金に入ったのもちょうどそんな時代だった。

この頃はまだ、鈑金部門に3名、塗装2名、おふくろを含め事務に2名という構成だった。俺はここで初めて塗装に配属される。まあ鈑金と塗装の両方に触れておくことはが将来的にも有利だし、そのおかげで俺はあの「妖怪百鬼夜号」を産むことが出来たともいえる。あんな”お遊び”が許されていたのは周囲が寛大だっただけ、俺が何も知らなかっただけで、実際経営の方は既にタイヘンだったのだと思う。

親父と俺、そして創業からの3人の職人さんたち―――この5人はずっと固定だったが、何人かの若い従業員は次々と入っては出ていった。せっかく新人を育てても、ようやく採算とれるくらいに成長した頃になるともっと給料のマシな他店に引き抜かれてしまう。これではただの「育成機関」ではないか。職人業にはあるあるだが、しかし彼らを引き留めようと給料を上げてやれる余裕も残念ながら無かった。

 

俺が「何かおかしい」と気付き始めたのは、遅ればせながらこの頃だったと思う。調べてみてビックリした。ディーラーや保険会社のフェアとは言えないやり口と、それらに対してあまりにも無防備に過ぎる親父の時代遅れな認識。

 

 

 

 

どう考えたってこんなんじゃ儲かるわけがない。ディーラーの下請けはやればやるほど赤字だった。保険のアジャスターには完全にナメられ、買い叩かれていた。

俺「アンタ騙されてんぞ!向こうの値引きに簡単に折れてんじゃねえよ!」

親父「ずっとこのやり方でやってきたんじゃ!」

「昔はそれで良かったんだよ。でも今はそんなんじゃ通用しねえんだよ!少しは若いモンの言葉に耳傾けろよ!」

親父との喧嘩も増えた。

 

勉強して見積りを見直し、アジャスターとの協定は俺が担当することにした。レーバーレートも変えた。そして脱下請けを目指し、直需のお客様を増やす方向に力を入れることにした。

 

 

 

 

ここで会社に一つの転機が訪れる。

それは高校卒業と同時に上京し、売れないタレントとダンサーをやっていた末妹の結婚と、帰郷だった。

 

 

 

(続く)