1 自分が離婚に巻き込まれたから
たくさん離婚に関する記事を書いているので、
なんとなく自己開示しておく必要がある気がします。
筆者が弁護士として離婚事件をたくさん扱う理由は、
なにより筆者自身が両親の離婚に巻き込まれたからです。
2 両親の離婚
筆者が小学生の頃でした。
母親が、離婚したいと言い出しました。
転校や引っ越しをするのは本当に嫌でした。
でも父親と家に残るという選択肢はなかったので、
弟と三人で父親の実家を出ることになりました。
昼逃げの状態での子連れ別居、という形でした。
引越し先はすぐに父親に見つかり、
父親が凸してくるようになりました。
転校先ではいじめを受けました。
体育大会の準備で友達同士でチームをつくるとき、
筆者はどのチームにも入れてもらえませんでした。
先生が学級会を終わらせようとしたとき、
筆者は手を挙げて、
「入るチームがありません」といいました。
泣くまいと思っていましたが涙を止めることはできませんでした
そのほかにも席替えのときにバイキン扱いされたり、
陰口でなく聞こえよがしに悪口をいわれたり。
今思うとよく学校に行き続けたなと思います。
他方で母親とも折り合いが悪くて、
家にも居場所はありませんでした。
母親との口論が激しくなって、
「お前は悪魔みたいなやつだ。
お前なんか産むんじゃなかった。」
といわれたことを今でも覚えています。
「お前は(別居した)父親にそっくりだ。」
ということもよくいわれました。
一度は包丁を向けられたこともありました。
自死を選ばなかったのは単に筆者が臆病だったからです。
毎晩「楽に死ねないかな」ということを考えていました。
そんな中で両親は離婚調停、離婚訴訟、反訴と、
順調に離婚事件のフルコース(デザート付き)を戦い、
解決までは5年を要しました。
おかわり(控訴)がなくてほっとした気持ちは、
今でも忘れません。
3 父の元に移る
離婚は成立したけれど、
母親との折り合いは悪いまま。
そんな状況で高校進学を迎えました。
このままではいつか母親に手を出してしまうのではないかと怖くなりました。
また当時の母親は極端に生活を切り詰めており、
済んでいた家は築50年の汲み取り式トイレの一軒家でした。
冬になると隙間風がひどくて、
家の中でもアウター含めて服を4枚着て生活していました。
ベッドに入るときはアウターを脱いで服は3枚でした。
そういう生活もしんどくなっていました。
筆者は母親にはいわずに父親に電話で連絡し、
一人で荷物をまとめて家を出る段取りを調整し、
そのあとで母親に「父親の実家に移る」と伝えました。
母親は諦めたような肩の荷が下りたような顔をしていました。
後から丸くなった母親に聞いてみたところ、
母親自身も「物理的に離れなければ自分たち親子はダメになる」
と感じていたそうです。
父親の元に移ってからは母親との関係もよくなりました。
4 弁護士になってもしんどい
そこから大学→法科大学院→司法浪人→弁護士と進んだわけです。
しかし弁護士になっても順風満帆ということは一切なく、
精神的なプレッシャーでで左まぶたのけいれんが数か月続いたり、
指先にろうそくの火を押し当てられたような感覚が発生したりと、
これまでにないストレスを感じる日々でした。
筆者は仕事の覚えが悪く、
ミスも非常に多い新人弁護士でした。
先輩弁護士から怒鳴られることもありましたし、
遠回しに弁護士に向いていないとほのめかされもしました。
一生懸命自分の考えをいうと馬鹿にされることもありました。
「あんな低レベルな本を持っている」と見下されたこともありました。
こんなに頻繁にどやされている人は初めて見たといわれたときには、
自分は弁護士の適性がないのだと考えて絶望しました。
でも、頑張り方や努力のしかたを教えてくれる人はいませんでした。
先輩弁護士が怖くなって、そういうことを訊くこともできなくなりました。
毎日職場に行くのがほんとうに嫌でした。
弁護士に向いていないので弁護士を辞めたいと常に感じていました。
でも辞める前に自分なりに努力しようと思いました。
筆者は先輩からの信用がなくあまり仕事を振ってもらえなかったため、
時間だけはありました。
そこで筆者は一つの分野を徹底的に勉強しようと思いました。
そこで自然に再会したのが「離婚」でした。
離婚事件を勉強しようと思ったきちんとした理由はいくつもあります。
そのほかに興味のある分野は非常に詳しい先輩がいて絶対に勝てないと思ったこと。
離婚事件を勉強しようという発想の弁護士があまりいなかったこと。
離婚事件の相談は一定割合で来ていたのですぐに仕事に役立つこと。
などなどあります。
でも一番の理由としては、
離婚事件がもっとも「他人事」でなく「自分事」に近かったことです。
時間や労力を費やして打ち込むことが最も自然に思えたのです。
いまでこそ人生経験が蓄積し、
相続事件、不動産事件、中小企業顧問、
といった分野についても「自分事」としてとらえ、
お客様に共感しながら仕事を進めることができます。
これらの事件の経験も勉強も相当してきました。
でも当時、足のつかない流れの中でおぼれていた筆者が、
手に掴んだのはやはり当時もっとも自分事に近かった離婚事件でした。
筆者は離婚のプロを目指し、
離婚関係の数百ページある専門書を難十冊も通読し、
離婚事件のセミナーに参加したり通信教材を視聴して勉強しました。
そうして数年かけて筆者は、
離婚分野では同業者先生から頼っていただけるようにもなり、
法律雑誌に載るような先例も獲得し、
勝てると踏んだ事件ではきちんと勝てるようになりました。
そのようなキャリアを努力して構築した上で、
現在の事務所に移籍してきてもう5年になります。
振り返ってみると離婚を得意とする弁護士としての筆者のキャリアは、
筆者を信じて仕事を任せてくださったお客様のおかげで成長しました。
そしてまた現在も成長を続けているところです。
5 おわりに
これを書いてたら過去のつらい思い出がよみがえってきて、
ひさびさに家でお酒を一杯だけのんでしまいました。
筆者の仕事におけるスタイルは
・「何でも屋」は「何でもない屋」、尖った得意分野を複数持つ。
・勉強は徹底的に、一つの法律相談をきっかけに5冊の専門書を読んだっていい。
・共感できるお客さんと仕事をし、弁護士の思いも伝えながら事件を進める。
・裁判所や相手方には優しく愛想よく丁寧に、喧嘩するときは徹底的に。
・馬鹿にされてもあらゆる角度から柔軟にアイディアを出す、ときには370でも。
といったようなものです。
このスタイルは離婚事件を通じて固まったものです。
その意味でも筆者は離婚事件のお客様に対して感謝すべきでしょう。
筆者は引き続き離婚事件をライフワークとして位置づけます。
特に、たくさんのお金やお子さんが絡む、類型的に揉めやすい事件が得意です。
離婚のことでお悩みになったら一度ご相談にきてくださいね。
杉並総合法律事務所 弁護士 菊地智史 東京弁護士会所属