
みかんが提供する別のテーマに関する一考察
なんちゃって、みかんの話のあとで、ふと考えました。
目のまえのみかんの山は私一人のものではないかもしれないから、誰かに食べられないうちに一番おいしそうなのを食べちゃえ!と食いしん坊の私は思うのですよ。 (子供のころは小さくて赤いりんごと、大きいけどまだ青いりんごとどっちにしようか長い間葛藤したこともある私です。なんだか自慢げ?
)
おお! ここには「おいしいから人に食べさせたいか、それとも自分が食べるか」という、今までとは別の深遠なテーマが含まれておりました。
これは誰とみかんをシェアするのかが問題になってくるのでしょうね。愛する人となら、相手においしい方を食べてほしいと思うのは自然でしょうし、対象が不特定多数であれば、自分が食べちゃってもいいやとGOサインを出す人が多いのではと思います。
そうなると、どこに「わかっていながら、相手においしい方を食べさせる」ラインが引かれるのでしょうか。日本人にはなじみの概念の「内と外」がここで顔を出すのでしょうか?マザーテレサなら、みかんをみんな人にあげちゃうのでしょうか?インドではコタツみかんはないとは思いますが。
どこまでが「わたし」に含まれるのかに関係するのでしょう。
みかんならまああげてもいいけど、チャヤのミルフィーユはいやだとか、ドリアンなら太っ腹でばらまいちゃうとか・・・(かなり個人の好みが反映されている例ですが)、いろいろな要素がからんできます。

でも結局、何をすれば一番自分が「心からうれしくなるのか」がポイントなのだと思います。無理せず心から。
相手が本当においしそうに、たった一つしかない「生麩」を食べる姿を見るのが至上の歓びだとか・・・ね。お互いに相手に食べてほしいときは、さらにことは複雑になりますが。
などととりとめなく思いをめぐらせながら、目の前に出てきたチョコレートに、頭よりも真っ先に手がでている自分の本能に驚愕。いままでの思索はなんだったのだ。
