以前も記事で書いていますが、
2021年の1月にくも膜下出血で倒れた母の面会に行って来ました。
以前は言葉を発することもありましたが、
最近の数回の面会では全く言葉は出ていません。
前回の面会では、言葉はなくとも、
私が顔を見せた最初の一瞬だけは、
顔がほころんで笑ったように見える
というサプライズもありましたが、
今回はそれもありませんでした。
少しずつ、どこかの神経の働きが衰えていっているのでしょう。
ただし、目力はけっこうあって、
話しかけると私の方をじっと見ているので、
何か言葉が出てくるのでは???
と期待しているいのですが無言。。。残念。
面会に行ったのは私一人だったので、
ベッドわきにしゃがみこんで、
顔を近づけてささやくように話してみました。
時折、顔をつんつんと触ってみたり、
手をさわさわと撫でてみたりしたけど、
反応はありませんでした。。。残念。
だけど、触った皮膚は温かくて、
「おー。生きている」
と実感させられました。
先日、小林正観さんの本に、
●人間の寿命は決まっている。
●生まれる前からシナリオがある。
と書いてありました。
「シナリオどおりの人生」
というのは正直納得いかない部分もありますが、
「寿命が決まっている」
というのは分かる部分もあります。
だったら、
母さんの寿命はいつに設定されているんだろう。
病院で衛生や栄養を、完全に管理されている母。
現在の先端医療でなければ生かされることのない命。
「母さんは不本意かもしれないけど、
まだ寿命があるみたい。頑張って生きてね」
と心の中で思いながら病院を後にした。
そしていつものように、
父が一人で暮らす実家で私は一泊した。
母と暮らしているときには、
ほとんど家事らしいことはしていなかった父だが、
今では家事をしっかりとこなして、
自立して、驚くほどきちんと暮らしている。
掃除も行き届いているし、
料理も楽しくなってきたようで、
新たな調理グッズなどを買って、
私に自慢までしてくる。
翌日の朝食は、
いつも自分が食べている朝食を、
私のために用意してくれる。
いつもはメザシだけど、この日は鮭。
お味噌汁はレトルト。
手作りの常備菜たち
母が病気になった意味って何だろう?
そして、まだ生きている意味って何だろう。
母は自分が病気になることで、
父に家事能力をプレゼントしたのではないか。
そして、まだ生きている意味は、
私が父と過ごす時間をプレゼントしているのではないか。
なんてことを思ってます。