銀行が身近であり、非常に信用がある・・日本ではそういう金融教育であったし、それが日本の政策でもあったからだ。

金融の安定化、これが明治維新からの最大の目的であったのだ。

その選択と結果が銀行主体となる間接金融ネットワークである。

今まではそれで良かった。

ただ、これからはどうなのかな。

学校で金融のリスクは勉強したのだろうか?

自己責任とは何かを理解しているのだろうか?

自己責任とは自分で金融リスクを理解していることを意味してるのだが、日本人が金融リスクを正しく理解できるとは思えない。

何故かというと、金融リスクなる不安を感じさせないのが、日本流の社会主義的金融の特性だからである。
※この場合の社会主義的金融は、新金融で説明しているものとは違う。

価格の妥当性というのも、本来の日本金融の場合は自己責任の話ではない。

だから取引において注文に「成行」というのがある。

これに慣れているから価格に問題意識など無いのだが、海外で「成行」というと不明になる。

日本での成行は、約定価格は信頼できるのでその値段で良いと言う意味である。

海外の成行の意味は、ロスカットみたいなどうにでもしてくれ!状態である。

日本で金融が難しくなっているのは、海外の金融技術が融合してきたことにある。

そして、すでに日本金融は国際金融の一部になっているのだ。

世の中のデジタル化が進む中で、色んなものがデジタルで出てきている。

基準があってこそ、価格の妥当性というものが説明されるのだ。

投資とか、投機とか、そういうものの根底に価格とか価値の概念がどこかにあるのだが、日本では板寄せというものを使う。

欧米だとプライシングモデルという表現が使われるのに対して、日本ではそこが大きく違う。

プライシングモデルには、リスク管理の概念を組み合わせたり、非常に日本人にとって難しい概念である。

日本はチャート解析とかそっちの話が主体になるのだが、このチャートというのもヒトの心理の形としている。

チャートのベースは、値段の推移であり、それを整理すると板寄せみたいな妥当性の根拠が見えてくると言う話だろう。

何故かと言うと、それがオーダードリブンの日本の相場だからだ。

多分、コメ相場を含め、古くからの島国独特に発展した歴史の産物でもある。

しかし今では為替を含めて海外の相場も関係している。

もう昔とは違う、欧米と日本の双方の金融が融合する方向にあるのだ。

どちらが正しいとか、そういう話ではない。

間接金融をコアにした日本というのは、世界では非常に珍しいのだが、直接金融にできなかった理由もわかる。

政策として最初から、日本全体の金利を低くし、経済復興を投資より優先させる必要があったためだ。

極端なことをいうと、そもそもの日本金融には投資という概念はないのだ。

世界の中で金融取引はシステム化されている。

海外はクオートベースなので、日本語訳だと顧客指値対当方式というクロッシング型注文処理である。

日本はオーダーをベースとしたオークション方式(築地のような競り方式とは違う)で、注文マッチング型だ。

西本はクロッシングとマッチングという言葉も使い分けているが、多分多くのヒトはその処理の差がわからないと思う。

システムの作り方や動作方法として全く違う処理である。

日本金融は価格の妥当性に対して有利であると話題にしたが、このオークション方式の根底にある注文板を寄せるという部分が特徴となっている。

この難しく矛盾だらけの部分を日本では自動化できているのだ。

ただこの機能の弱いところは処理速度が遅いことである。

デジタル化というのは、処理速度が求められるのだ。

大きな矛盾だ。