「妥当性」とは、「測定しようとしているものをどれくらい的確に測定できているか」ということ。

「信頼性」とは、「同じ条件下で同じことをすれば、同じような結果が出る度合い」である。

「妥当性」の例に挙げられるのが「時計」である。

時間を計測する正確な機械である。

「信頼性」の例に挙げられるのは、その「時計」は「どれくらい壊れにくいのか」という話である。

つまり、機械がこれらの要因を上手くカバーできるのだ。

時計に該当するような「金融の機能」をしっかりつくらないと、フィンテックのフィンの部分、つまり妥当性のエリアはクリアできない。

そしてブロックチェーンというのは、この「壊れにくい」部分であり、フィンテックのテック部、つまり信頼性のエリアである。

以前より金融部分の整理が難しいと言っているのは、特に妥当性に該当する部分である。

相場もそうだが、相場は価格を説明するために重要な要素になる。

つまり、ここに「価格の妥当性」のヒントが出てくる。

価値の大きな要素に価格の定義というのがある。

価格とは難しいものであり、一般的に言われる値段とは違う。

西本に言わせると、値段と価格は大きく違うものだ。

価格は定価というか価値の根拠があるもので、値段はその時についた気まぐれなものと定義している。

値段は参考であり、信頼性の元データでしかない。

値段を形成しているのが相場である。

さらに厄介なのが、価格の妥当性というのはヒトの歴史が関係していて、その国、民族のもつ価値観に大きく影響を受けていることである。

世界標準もあれば、そうでない固有の部分あり、双方が大きく関係している。

クロッシングエンジンだと、基準「価格」と約定「値段」、こういう使い分けをしているのも意味がある。

こういう注文処理は日本独特の部分である。

海外だとこういう価格とか値段は「プライス」の一言で終わる。

これは文化の違いであり、考え方と価値観の違いからくる。

価格の決め方が違うから、それの元になる価値感が違うから、そのような認識の差ができる。

もっと言うとそのどちらも良いところと悪いところがある。

だから、どちらが優れているとかそういう話ではないのだが、ここからが面白い話になる。

金融の神がつくった悪魔とヒトのつくった機械がこれからの新金融の中心になり、それらが融合していくという話をした。

金融の神は複数存在している、そういう話もした。

その中で欧米金融と日本金融は大きく違う、そういう話も過去のブログの中でしてきた。

価格の決め方だが、欧米先進国ではクオートドリブン方式が主である。

直接金融が主体であるなら当然だろう。

日本はオーダードリブン方式を採用した。

先進国の中でも非常に珍しい(というか単独の)方法だが、間接金融主体を考えると正しい選択である。

この違いは、昔のブログで説明したので省略したいが、これらの方式による「妥当性を証明し維持している思想」が大きく異なっている。

日本ではオーダードリブンの概念であるが、それは流動性の高いもの(=大口)が大前提である。

日本の機関投資家が巨大化しているのも、その大口による妥当性の証明に関係しているように思う。

つまり、日本は組織金融であるということだ。

言い方を変えれば、社会主義っぽい金融である。