はいはーい
年末、時間に追われて中途半端なところで終わっていましたが、その続きでーす
美術の授業
前半の記事にも書きましたように、美術部が多少有名な学校だったので力を入れているだろう授業でした。
美術教師も何人もいましたね。トップはもちろん、美術部の顧問で二科展入選者を多数輩出させてる先生でしたが私のクラスの担当ではなく、通常は別の先生でした。
私のクラスの担当の先生は美術の先生の中でも若い世代の先生で、授業前とか授業中にもよくアニメやマンガの話をして盛り上がってました。そういうのが分かる先生っていいですよね。
ある時、先生が学生時代にアニメのセル画をよく描いていたと聞き、「ぜひ教えてください!」と友達数人でお願いして、夏休みに道具を揃えてセル画の作り方を教えてもらいました。もちろん、授業外でですよ。
![ニヤリ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/012.png)
![えーん](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/018.png)
美術の授業2:陶芸
美術の授業で陶芸をする事があり、湯飲みを作りました。
今なら興味ありありでとことんこだわりたい所ですが、当時は特に何も感じず、言われるがまま作った感じでした。
土を練ってひも状にしたものをくるくると積み重ねて形を作っていくタイプの造形法でした。色もどんな感じになるのか想像がつかなかったのですが、出来上がったらこんな感じになりました。
美術室あるある?:伝統のラクガキ
美術の授業はいつも美術室で行われていたのですが、美術室の机は大勢が道具を広げて作業できるような大きな長い机でした。
その机にですね、歴代の先輩方がめちゃめちゃ印を残していってくれているんですよね(笑)。
印というのは…男子校ということでだいたい想像がつくと思うのですが、ズバリ、下ネタです。
雑なから、見た事あるキャラクターの乱れた姿、男性のシンボル、女性の・・・もぉ本当に、なぜそのままで残してるの?ってツッコミたかったですけど
そんな中、プロ級の印を残している猛者が何人かいたりして。一番印象的だったのが、8頭身でリアルになった超有名なネコ型ロボットと女性の合体シーンでした。この時代にスマホがあれば間違いなく写メで保存してましたよね。
あと、授業で新しい事を始めるたびに過去の生徒の作品が見せてもらえてまして、題材が可能な時はアニメやマンガのキャラを描いている方がいて、いつも感心していました。
3年のラストには題材フリーで描ける授業がありまして、先輩たちはかなりの確率でアニメやマンガのキャラを描いていましたので自分も3年になった時は何のキャラを描こうかアレコレ想像して楽しみにしていたのですが、3年時に急に学校側の方針変更があり、美術の授業が無くなってしまいました。
私立高校だから出来た事なんでしょうけど、3年時は極端な授業形態でしたね。
私は理系だったのですが、1日6時間授業のうち、数学だけで4時間(内容は分かれています)とか、物理化学系も週2~3時間だったり、文系科目は週1~2時間(受験前は内職OK)、体育も週1か2くらいで美術なし。英語もあまりなかったような・・・。
*国立絶望レベルでしたので。
英語全然ダメなのに、アメリカへホームステイ
当時、学校主催のアメリカへのホームステイ事業というのがありまして。
いつ募集があったのかも知りませんでしたが、親が勝手に申し込んでいたみたいで。1回目の説明会か何かの後に担当の先生から呼び出されて、何で来なかったの?と言われて初めて自分が応募していたのを知らされ、親にめちゃくちゃ文句を言いました
。
そもそも私は超人見知りで日本人と話すのもニガテなのに、外国の人となんてとんでもない!と思っていたんですよね。しかもスクールに通うとかでもなく、一般の家庭に一人で滞在とかありえないでしょ?
ですがすでに断るに断れない状況になっており、しぶしぶ受け入れることに。
まずは自分のプロフィールと受け入れ先の希望を書いて提出。
私はそのままですね、アニメ、マンガ、ゲームが趣味と釣りも好きって書いたかな、そして受け入れ先に希望する事に、自分の精神年齢が低いので同世代より下の世代がいる家庭がいいと書きました。
少しして受け入れ先が決まり、何度か手紙のやり取りもしました。
私を受け入れてくれたご家庭は、3歳、5歳、7歳の3人の子供がいるご家庭でした。
そして高2の夏休み、いよいよアメリカのオレゴン州の一般家庭へ約3週間のホームステイ。
空港到着後詳しい説明もなくあっというまに解散になり、ホームステイ先の家族との車の中で話し掛けられたも全く何を言っているのは分からなかった時は、頭の中でドナドナが流れていました。
翌日はいきなりキャンプにも連れていかれましたし。仲良しさんたちなのでしょうか、何家族も来ていて、その中に日本人は私だけ
。皆、日本語が全然分からないのにすごく優しくしてくれましたね。
月~金の午前中は同じ学校から参加している人が集まり、地元の方による簡単な英語の授業や英語を使った遊びなどをして過ごし、午後や週末は各家庭で自由に過ごす、という感じだったと思います。
時々社会見学的な事もあったような気がします。
家庭では、海外版のファミコンがあったのでそれをよくプレイして遊んでましたね。当時アメリカではゲームのレンタルも合法だったので、何回かゲームのレンタルにも連れて行ってくれました。
そのご家庭でメインでゲームをしていたのが女の子だったからか、私がスーパーマリオブラザーズをクリアしただけで大騒ぎになり、たちまち近所の子供達が集まってきてヒーロー扱いをされました。
それがきっかけで近所の子供達とも仲良くなり、時々遊ぶようにもなりました。その中の一人、小学校低学年くらいの男の子が日本語話せるよと言って『イチ、ニー、サン、シー、ゴー』って聞かせてくれたのがめちゃめちゃかわいかった。
そうすると周りの他の子供達が何だ何だとなり、日本語だよっていうと皆で大合唱になりましたね。しかも、ゴーのあとは一斉に走り出すという。5がGoなんでしょうね。
あと、日本にはまだ無かった『トイザらス』にも連れて行ってもらいましたよ。
そこで見つけたゲームボーイは、テトリスが付いていて当時の日本の本体代より安かったので買っちゃいましたね
メイドインジャパンなので、日本のものと何も変わらないという。
その後、一人の時はずっとテトリスをやってましたよ。
終盤、参加者でポートランド散策というイベントがあったのですが、うちはキャンセルしてご家族と別荘へ行きました。持ち別荘なのか貸し別荘なのか分かりませんが、さすがアメリカです。やることがデカイ。
ちなみにポートランドに行った友達は、普通に町中でパイ投げ合戦(ドッキリとかでやるやつ)やってたわ、さすがアメリカ!って言ってました。
![照れ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/007.png)
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この海外研修で英語力は上がりませんでしたが、積極性と度胸はかなりつきましたね。親も大喜びでした。
日本で唯一、狂言部!!(当時)
声優を目指していたこともあり本当は演劇部に入りたかったのですが、演劇部はなかったのでどの部活にも所属せず、一人で黙々と発声練習をしたり腹筋を鍛えたりしていました。
アニメ・マンガサークル(前半の記事を参照)の会員に狂言部の人がいまして、人が足りないから入部して!と何度か誘われてはいたのですが、狂言?何それ??状態だったのでスルーしていまして。
ある日狂言部の顧問の先生から直々に『声優を目指してるってね。ウチ、入らんね?発声練習にもなると思うよ?』と言われ、それなら!とアニメ・マンガサークルの会長も巻き込んで入部する事にしました。
この狂言部の顧問の先生は実はただの素人ではなく、正式に一流派を継ぐ方で、その指導を受けられるというのがとても興奮しました。
ただ、入部したのが2年の夏休み後だったので実質な活動は約半年くらいでして。
覚えた演目も1つのみで、舞台も3回くらい?だったかな。
台本とマイ扇子。
太郎冠者としての舞台姿。着付けが結構大変でした
部活の顧問だった先生は現在は退職され、地元で子供達に狂言を教える活動をされています。
年に数回ご自身でも舞台に立っていまして、数年前に招待されて久しぶりに先生の舞台を拝見させてもらいました。「また一緒にやろう!」ともおっしゃっていただきましたが、丁重にお断りさせていただきました。もう台本を覚える自信がないですもん。
初日の出を拝む
生徒会の恒例行事(?)として初日の出を拝みに登山をするというのがありまして、私も高2の年末年始で連れて行ってもらいました。
前日に山のふもとの旅館に泊まり、たしか朝3時か4時頃に起きて2時間くらいかけて頂上まで登っていましたね。
動いている時はいいのですが、頂上まで登りきり、日の出を待っている間が寒くて寒くて割高になった温かい飲み物を買って飲んでました。
例年はどうだったのか分かりませんが、けっこう大人数で室内でもワイワイガヤガヤやっていた為か、翌年から出禁になっていました(引率の先生もいましたが…)
生徒会行事としては無くなったのですが、翌年以降も仲のいい友達数人と別名を語り初めてです!みたいな顔をして(笑)、初日の出登山は数年続きました。
高校を卒業してから初めての初日の出登山の時、参加した約10名のうち私ともう1名以外はみんな彼女が出来ていたのにはビックリしました。男子校で、高校当時は誰一人女性とお付き合いした事が無く彼女が欲しい欲しいと言っていたのは知ってましたが、みんな行動力ありすぎ!
もちろんその日の夜は経験者どもに根ほり葉ほり聞きまくりましたが
。
大学受験
高2の三者面談で担任と親を前に私は『声優になりたい!』と高らかに宣言をしたのですが、バカじゃねぇの?と一喝されまして
。まぁ、当たり前の反応ですよね。
親は家業を継いでもらいたいと思ってたみたいですし、担任も普通は賛成しませんよね。
ですが親も私が頑固な事を知っていますから、大学に行って家業を継ぐ為の国家資格さえ取れたら、あとは好きにしていい、と折れてくれたんですよね。
私としては高校を出たらすぐ東京の養成所に入ろう!と思っていましたので、それを4年先延ばすくらいならと思ってそれを受け入れました。後で聞いたのですが、親は、4年もすれば諦めてくれると思っていたようです。だがしかし!だったんですけどね(←この話は後の回顧録にて詳しく書きます)。
ということでまずはある国家試験の受験資格を得る為の大学を目指す事になったんですがね、そもそもこの高校の私のクラス(普通科)が大学を目指せるレベルではないんですよね。
数学、英語、化学が一般試験の受験科目で。
数学は担任が担当だったので普段からビシビシと鍛えていただき、英語は今更やってもあまり伸びないからと断られ、化学は個人レッスンをお願いして。
おかげさまで、数学と化学にはバツグンの自信を持てるようにまでなったのですが、推薦で受験させてもらえるようになり、そうすると推薦の科目が化学と英語だけというのを知り、理系大学なのに数学が無いとかある!?っと突っ込まずにはいられませんでした。
忘れもしません、11月1日試験、11月7日合格発表。見事、合格することができました~
その後に受験した大学は落ちましたけど。
大学合格が学年で1番乗りだったことと、普通科からの合格ということで学校中が大騒ぎになりまして(例年はほぼ就職か専門学校へ進学というレベルの高校でしたから)、職員室前の壁にデカデカと名前と大学名を貼りだされまして、その後1カ月くらい次の人が現れなくてめちゃめちゃ冷やかされていました。
最終的には理系クラスからは、約半分が大学進学、残りも専門学校へ進学で、就職する人はほぼゼロという快挙を成し遂げていました。
これも入学時にボーダーラインを上げたことと、3年からの極端な受験科目への時間割変更、そして我が担任による数学の学力のレベルアップの賜物なのでしょうね。
その後、うちの担任はその腕を買われ他の高校に引き抜かれたそうです。
運転免許
高3の2月以降はほぼほぼ休みになるうえ、国立大学を目指す人以外はほとんどの人が進路も決まっていた為、一斉に自動車学校に通い始めていました。当時は、いい車に乗る事が男のステータスでしたからね。
と言いながらも、私は車に全く興味が無かったのですぐには運転免許をとるつもりはありませんでした。運転免許をとったら自営業の家の手伝い(配達)に駆り出されるのも分かっていましたから、実家にいる間は絶対に運転免許なんてとるもんか!と思っていたのですが。
今じゃなきゃお金は出さん!と父親に言われ、しぶしぶと運転免許を取りにいくことに
。
ほとんどの人が高校の卒業式までに運転免許を取得していた中、やはりしぶしぶはいけませんねぇ、私、仮免までも取れてなくて
大学進学の為地元を離れる事が決まっていたので、それまでにはなんとか、と思っていた矢先。
忘れもしません、3月14日。あるアニメのイベントに参加する為に親にJRの駅までの送迎をお願いしていたのですがそれがギリギリになってしまい、駅に到着した時には乗る予定だった特急がすでに到着しており、大慌てで1つ向こうのホームに行こうと階段を駆け上がり、階段を駆け下り・・・の途中で足を滑らせてしまいゴロゴロドッシャーンと転げ落ちてカバンの中身も全部ぶちまけてしまって。
恥ずかしいやらビックリやらでしたがとにかく特急に乗らなきゃ!という思いが強く、急いで荷物をかき集めて飛び乗りました。
特急に間に合ったことで一安心でしたが異変はそこからでした。
荒れた呼吸も次第に落ち着いてきた時、ふと違和感に気付きました。
・・・色が無い?そうなんです、目に映るものが全て白黒になってたんです。目をしばらく閉じてみたり、マッサージをしてみたりしたのですが全く色が戻りません。
終わった…
私が進学する大学は、ある国家試験を取るための大学だったのですが、その資格、色覚異常があるととれない資格だったんです。大学進学自体が白紙に戻ってしまう可能性もあり絶望しかなかったのですが、30分くらいたった頃でしょうか、とつぜん目が開けていられないほどのまぶしさを感じ、その後目を開けると、色が戻っていました。あれは何だったのでしょうね。
そして足の痛みも。骨折の痛みではないようだったので、捻挫かな、と思いそのままアニメのイベントに参加したのですが、終わる頃には歩けなくなっていました。
どうにかこうにか自宅まで戻り、足の状態を確認してみると・・・2倍に膨れ上がっていました即病院行きとなりました
。
診断結果は、靭帯の損傷。人生初のギプスで松葉杖生活が始まりました。
話がだいぶ脱線しましたが、そんなこんなで運転免許取得は後日になってしまいました。
霊感だだもれI君
始まりは何だったのかはっきりとは覚えていませんが、強烈だったのがI君がが学校に持ってきていた1枚の写真。
ある神社の階段下で撮られた友達数人の集合写真。階段に沿って提灯の光が上まで続いていたのですが、よぉ~くみるとその提灯の光と思っていたもの、全部ガイコツだったんです。
聞けばI君、よく人魂や生首に追っかけられたり、誰かとすれ違ったのに振り向いても誰もいないとか、日常的に不思議な体験をしてる人だったんですよね。あと通学に使っている駅の自転車置き場の隅にずっと性別不明の下半身があるとか言ってました(←確認を求められましたが怖さの方が勝ってしまって確認できませんでした)。
なので絶対に他にも心霊写真があるハズ!と思い、家まで遊びに行ってアルバムを見せてもらいました。
アルバム3冊だったかな、見た中でやはり数枚おかしな写真がありました。
車の前でポーズを決めている写真、運転席にはだれも乗っていないハズなのに・・・
家族旅行か何かの写真、片足が消えてる人や向こう側が透けて見える人が・・・
これは本物だ!と思ったI君でしたが、その後私がヲタク道に引きずり込むと全く感じなくなったのだとか。
有名芸人さんとニアミス!?
これは最近知ったんですが、今でもよくTV番組に出演しているモノマネ芸人さんが同じ高校出身で、しかも私と同じ時期に通っていたようなんですよね。もしかしたらすれ違ったりしてたかも(←ミーハー)。今度先生に聞いてみよ
モノレールは何回乗っても
モノレールというと東京など大都会にしかないというイメージだったのですが、あったんですよねぇ、普通に。中心部を始発とし、途中、競馬場、大学、そしてアドベンチャープールなど集客施設がありました。
その終点が私が通っていた高校の近くにあったのでJRに乗り遅れた時や、土曜の授業終わりに遊びに行ったりする為によく乗ってましたね。高校3年間、数えきれないくらい乗ったと思いますが、高い所って何回乗ってもテンション上がるんですよね~。
初マクドナルド!、初ロッテリア
!
田舎すぎてコンビニすらない所に住んでいましたから、ハンバーガーなんてレストランの本格的なものか、遠出した時に販売機で買うシワシワのものしか食べた事がなかったのですが、高校近くの繁華街にはマクドナルドとロッテリアが道を挟んでデーンと建っていて。その近くにはミスタードーナッツも(こちらも初
)。さすが都会!って感動しましたよぉ。マクドナルドはいつも人が多かったので、かなりの確率でロッテリアに行ってました
。自分で注文して、トレーを持って席に行き、食べる・・・たったこれだけの事ですけど、これでオレも都会人の仲間入りやぁ
と嬉しかったですね~。マクド、行かへん?←1回言ってみたかった
。
ヲタクの聖地、アニメショップ!
私が通っていた高校は県内で2番目に人口が多い都市にありまして、それまでと比べ物にならない都会だったんですよね。だもんで入ってくる情報量も多く、アニメショップの存在もアニヲタの友達から聞いたんですよね。
聞いた時は、そんな天国みたいな場所があるのか!?とワクワクが止まらなくて。1回行くともう止まらなくて。月1くらいで通ってましたぁ
。文具系のグッズをよく買っていましたね。
文明の利器、CDプレイヤー!
高校入学前後で我が家にも遂にCDプレイヤーがやってまりました。当時はすでにレコードは衰退しており、カセットも録音が中心の時代で、アーティストさんもCDがメインになってきていました。
アニメ関連のものはほぼCDで発売されていまして、私もCDプレイヤーを買う前から何枚かCDを買ってましたね。
これそのものではないんですけど、こんな感じで上部にCDを入れる所があり、手前にカセットテープを入れるところが2つ。そしてラジオも聞けます。これをCDWラジカセと言ってました。
まだまだカセットからカセットへのダビングが多かったので、2つは必須でしたね。
ウォークマン
今では外でも簡単に音楽を聴くことができますが、当時はまだ家か車で音楽を聴くのが主流の時代。ウォークマン自体は以前から発売されていたのですがまだ身近ではありませんでした。
ちょうどこのくらいの頃から色んなメーカーから発売されるようになり、価格もお手頃になってきてお年玉でも買えるくらいになってきたこともあり、電車通学で片道1時間以上かかるのもあり、友達と一緒に買いに行くことになりました。
エロの師匠S氏が関西地方の出身だということもあり、高校生ながら値切り交渉までしてくれて、2000円くらい安く買うことが出来ました。
これもそのものではありませんが、こんなタイプのものでしたね。イヤホンはこんなりっぱなものではなくて普通のものでした。
ウォークマンを買ってから、通学が退屈ではなくなりましたねぇ。まぁ、カセットを何本も持ち歩くのは荷物になるので、前日の夜に、次の日の1本!と決めてました。
レンタルショップでCDを借りてダビングしたり、好きな曲を集めてベストヒット曲集を作ったり。それを友達と交換して聴きあったり。懐かしいなぁ。。。
忘れもしない!台風19号!!
高3の秋頃だったと思います。例年いくつもの台風が上陸していたので、台風が来ると分かっていても特別な備えをすることもなかったのですが(今のような警告的なものもなかった時代です)。現に妹の友達も普通に遊びに来ていましたし。・・・ですが、この台風は違いました
。
夕方頃から強まった雨と風で、まずは2階の全ての部屋で雨漏りが始まり、そして停電。交通機関は全てストップし、妹の友達も帰れず我が家で1泊。その日は寝室があった2階が全滅だった為、1階の和室で全員雑魚寝でした。
一夜明けて外に出てみると・・・
コレですよ。そりゃぁ停電になりますよね。てか、電柱って風で倒れるのか、と思っちゃいましたね。
*写真の日付は正確じゃないかもしれません。
家も瓦のほとんど飛んでいって丸ハゲ状態に。雨漏りもするわけだ。
ちなみにこの写真は、台風が来る前までの私の部屋の状態です。雨漏りでセル画以外はダメになっちゃいました。
交通機関もマヒしてるし、これは当然高校も休みだろうと思って連絡をすると・・・普通に授業があってました。
高校付近はそんなに被害が無かったんですって。電車通学者が少数派だったということもあり、通常授業だったんですよね。うわ~、こんな所で皆勤賞が終わっちゃうのかぁ…と思いましたが、後日、電車通学者は公休扱いになり、私の皆勤賞も継続になりました。
その日は自宅とお隣の高齢夫婦の家の屋根に上り、無事だった瓦を組み直す作業をずっとしてましたねぇ。屋根の上って見晴らしがいいし、遠くの景色も見れるのですごく好きです。
こんな体験をしているので、少々の強い勢力の台風だと動じませんよ。
パソコンが欲しい!!
パソコンというと、小中学生の頃のイメージではファミコンの上位互換という感じでしたが(高級なゲーム機)、高校生にもなるとちょっとその意味合いが変わってきます。
健康的な男子諸君なら分かってもらえると思うのですが、パソコン=エロの道具、だったんですよね
ゲーム雑誌も身近になり、真面目なパソコンの雑誌でもそういうゲームが紹介されていたりするのを見て、パソコン欲しい!と思うようになりまして。
しかしですよ、当時のパソコンは子供が買えるような価格ではなくて夢のまた夢でした。
デスクトップのパソコン一式で40~50万くらいだったかな(ハードディスクもWindowsもExcelもWordもセキュリティーソフトもありません)。
だもんで大人になったらお金を貯めて絶対買うぞと思っていたのですが、ある時思わぬ応援が入りまして。
両親の自営業のお店に出入りしていたメーカーさんで、私ともよくゲームの話をしていたお兄さんが乗り気になってくれまして。これからはパソコンを使えた方がいいとか、自分の知り合いのお店で1つ2つ型落ちのパソコンなら20万前後で買えますよ、とか両親に話してくれて。
さすがに一概にNOと言えない状況を作ってくれまして、『じゃあテストで1番になったら買ってやる』という約束を取り付けました
![チョキ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/117.png)
![爆 笑](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/001.png)
というわけで、コレ
ほぼほぼエロゲーしかやってませんでしたわ。両親、すまん
。
台風の時もコレを一番に避難させましたしね。
・・・ふぅ、これで書きたいこと全部書けたかな?
いや、自信はないな。思い出したら加筆しまーす
というわけで、回顧録、次回は<テレビ・芸能>となります。
末永くお待ちください。。。