先週久しぶりに実家へ帰りましたので、改めて母親に事実確認したところ、勘違いしていた部分や追加エピソードなどもろもろありまして、加筆修正しようと思ったら容量オーバーになるページが多数出てきまして。
思い切ってガッツリと構成変更などしまして、ついでにブログ自体のタイトルも変えるなどリニューアルしました!
まだ修正途中の部分もございますが、ご興味のある方はさかのぼってご確認下さい。
<生活>
中学校生活
この時代、私の地域ではまだ中学受験をする子もいなかったので、小学校と同じメンバーがそのまま中学校に上がってきました。+(プラス)近隣の小規模な小学校が合流し、1学年4クラス・約160人になりました。
基本徒歩通学でしたが、新たに合流した小学校の地域の人だけ自転車通学が認められていました(距離がダントツに遠いので)。
初制服
学生服に学生帽、学生カバンというTHE学生、というような格好でした。
私の場合、ボタンがある服が嫌いでそれまではトレーナー系の服しか着なかったので、学生服のシャツはとても窮屈に思えました。
そして学生服の襟の部分に付いている”カラー”、冬は冷たくて本当に嫌でした。でも付けるのが校則でしたのできちんと付けてましたが。外すとたちまち不良あつかいでした。
あと学生かばんは”たすき掛け”というのが決まりでして。でもほとんどの人が面倒くさがって片方の肩にしかかけないんですよね。
時々服装チェックで先生方が登校時に見回りにくる事がありまして。
私は普段からきちんとたすき掛けをしていたので関係ありませんでしたが、周りの友人は先生の姿を見付けてから慌ててたすき掛けにしてましたね。
そんな中、なぜか普段からたすき掛けをしていた私だけ、『掛け方がおかしい!』と注意された事がありました。納得がいかーん。
今日から俺は‼的ヤンキー
時代はヤンキー全盛期。まぁ田舎だったので根っからの悪はいませんでしたが、髪型はリーゼントに剃りこみ、制服は短ラン(おへそが見えるくらい短い学生服)にボンタン(土木作業の人が履くようなズボン)、制服の内側には派手な刺繍という典型的な格好のヤンキーが各クラス2~3人ずつくらいいました。
学校外では知りませんが、学校内では隠れてタバコを吸ったり、先生に歯向かうくらいのおとなしいヤンキーでした。
ただヤンキー=カッコイイ、真面目=かっこわるいという風潮があり、女子からモテるのはヤンキーばかりで、ド真面目代表だった私にはちょっとやってられない感じでした(笑)。
ヤンキー失踪事件
ヤンキー数人が何日も学校に来ず、家にも帰っていないということがあり、見かけたら知らせるようお達しが出ました。後日無事発見されたのですが、ウチからけっこう近くにあった廃墟に潜んでいた、と後で聞かされました。
遂に校内暴力
中3の時だったと思います。ヤンキーのボス格の一人が遂に先生に手をあげて停学になりました。ヤンキーといっても根はいい人ばかりだったので、何があったんだと心配になりました。
殴られた教師は目の周りにアザが出来たようで、しばらくはサングラスをして授業をしていました。
中1の担任
新卒の英語担当の女性教師でした。英語の時間、生徒は先生の事をMiss○○と呼ぶ決まりだったのですが、皆ふざけてブス○○と呼んでいました。で、キーってなるのが毎時間のお約束でした。
なぜか私には会うたびに『目がキラキラしてる!』と言ってくれてました。・・・今は散々濁ってるだろうけどね。
中2、3の担任
中1の時アンケートがあり、嫌いな教科に”数学”と書いたせいだと思ってます。その後は数学担当のベテラン女性教師が担任になりました。
この先生は数学の時間以外でも独自に数学のプリントを作ってくれたり、個人的にアドバイスもくれたりとかなり熱心な先生でした。おかげで中学を卒業する頃には数学が大好きになっており、高校、大学と理系の道へ進みました。
あと、給食の時間も独特で。
通常、先生は前の自分の席で食べるものなのですが、この先生は毎日日直に自分の席を使わせ、自分はその日直の席で食べ、生徒とおしゃべりを楽しむ、ということをやってました。
この先生とは今でも年賀状のやり取りをしているのですが、その後、校長にまでなり、無事定年をむかえました。やはり、校長にまで上り詰める人は違うんだな~と思いましたね~。
名物先生 その1
1~2年の時の国語の先生が強烈なキャラでした。
50代(?)独身、体格のいいブルドックのような先生で、おしおきがゲンコツやビンタだったこの時代、この先生の武器は”キス”でした。
教科書や宿題を忘れると教室の前に並ばせられ、男女構わずほっぺにブチュ~とやられてました。拭ったりするとさらにもう1回追加されて。
思春期の、特に男子にはとても屈辱的な事で、一気に忘れ物が減りましたね。ただ、ヤンキーの皆さんはそれでも勇敢に立ち向かい(笑)、毎時間キスを貰ってました。
出来の悪い子程カワイイといいますか、先生も慣れてきちゃって常連の子には下の名前を呼びながら何度もブチュブチュしてました。
今だったら完全にセクハラでアウトですよね。はい、でもまだこういうことが許された時代だったんですねぇ。
名物先生 その2
地理のI先生、見た目はくたびれた中年のおじさんって感じなんですが、その風貌にマッチした独り言のような一人ボケツッコミが面白くて笑いが絶えない授業でした。
そして雑学の知識が豊富で授業中にすぐ話が脱線していき、チャイムで我に返るということも度々。なので学期末は範囲が終わらない、と超高速の授業になったりもしてました。
成人式の式典でもお祝いのVTR出演があったのですが、I先生節炸裂で、他校出身の子達はかなり引いてました。
席替え、班決め
小学校の時と同じく、各学期ごとに学級委員長男女各1名、班長(男子)、副班長(女子)各6~7名でした。
学級委員長のパターンは小学校の時と同じで、私も3学期に指名されることがありました。
班長に学級委員長以外の時は常にやらされていたと思います。
班員選びは担任の先生によって多少の違いがありました。
班長、副班長を先に決め、残りの人は各自好きな班長の列に並び、人数が多いところは抽選で選ばれ、ハズレた人は人数が足りないところに入れられるパターン。これは班長の人気がハッキリと出るけっこうエグイ班決めで、私の所はいつもガラガラでした。
同じく班長、副班長を先に決め、あとは先生と班長副班長の話し合いで決めるパターンも。こちらは逆に班長と副班長が自分で好きな子を選べるので、私はこちらのパターンが好きでした。
ある程度決まったら先生からチェックが入り、この人とこの人を一緒にすると悪ふざけがエスカレートするから別々の班にしよう、とか、この子とこの子は馬が合わないから一緒にしないようにしよう、とか。
さらには班長や副班長からも、この子は扱いが難しいから変えてほしいとかもありましたね。ありがたい事に、問題のある子は私に任せたら大丈夫と思われていたみたいで、私の班は問題児の集まりになる事が多かったですね。不思議とみんな問題を起こす事なく仲良くやれてたと思います。
あと先生によっては、1週間ローテーションで、班ごと席替え(例えば右前だった1班が、次の週は右後ろに移動したり)する事もありました。
体育の授業で水泳がない!?
当時は普通だと思っていたのですが、普通じゃなかったようです。
私が通っていた中学校には、プールがありませんでした。なので、水泳の授業もありませんでした。その代わりに、夏休みに市民プールの無料チケットがけっこうな枚数配られていましたね。
ちなみに高校にもプールが無かったので、今でも水泳はニガテです。
大学の時、周りの友達から、中学・高校での水泳の授業の天国と地獄話を聞き、羨ましく思う反面、無くて良かったなとも思いました。いや~、でも好きな子の水着姿は見たかったなぁ。
部活は軟式テニス部
運動音痴の私でしたが、兄が軟式テニス部にいた事と仲の良かった友人がテニスに興味があるとのことで一緒に入部しました。
女子テニス部とは担当教諭も練習時間も違っていたのでムフフな事もなかったのですが、兄が3年で部長とも仲が良かった事から上下関係は比較的緩かったと思います。とにかく皆で部長をイジッてました。サーブ練習で一斉に部長にめがけてサーブしたりとか。
しかし3年生が引退して2年生が新部長になったとたん、とても厳しくなりました。
部活を休んでと帰宅していると追いかけてきてラリアットを食らって連れ戻されたり、何度かラケットでケツバット(ケツラケット?)されたこともあります。防ごうとして手に当たり血豆が出来たこともあります。許さんゾ~でもその部長とはその後、ゲーム友達になりました。
2年になる時、担当教諭が他の学校に移動になり男子テニス部は廃部になりました。その後はずっと帰宅部でした。
今考えると、どうして女子テニス部の担当教諭が男子テニス部もやってくれなかったんだろうと不思議に思います。あの七三ムッツリめが!!
みんなからの印象≠実際の私
小学校と中学校の1番の大きな違いは、自分の成績がハッキリと分かることですよね。
小学校時代、テストではちょくちょくクラス最高点やそれに近い点数をとっており、授業中に先生に当てられても正解を答えれたし、周りからも頭がいいね~と言われてきたので、中学でもTOP10くらいには入っているだろうと思って迎えた中学最初の定期テスト。
なんと結果は中の下。
自分の上は数人くらいと思っていたのが、2クラス分以上いるじゃんかよっ!!
もぉ、裸で町中に放り出されたくらい恥ずかしかったですね。
成績は全体的には公表はされなかったので、頭いいね~と言われても、そんな事言いながらお前の方が上なんじゃないの?と疑心暗鬼になってましたね。
中学での恋愛事情
これまでは身近にいてよく話しかけてくれる子を好きになるというパターンだったのですが、中1の時に初めて同じクラスになったAさんは、ほぼ話したことがないまま、その外見と雰囲気で一目ぼれしちゃいました。
Aさんは美人でスタイルもよく活発で…というタイプではなく、別格な美しさはありましたが(笑)小動物的なカワイさも合わせもつ大人しめの子でしたが男子にはとても人気でした。
小学校の卒業文集で知りましたが、Aさんは小学校低学年の時によそから引っ越してきたのだそうです。どうりで。こんな田舎にいる顔じゃないもんね。
私は元々自分から話しかけれるタイプではなかったので遠くから見ているだけだったのですが、ある時班長と副班長という立場で同じ班になりまして、立場を利用して話すキッカケを作ってました。
幸運な事に、その時期に学校のキャンプがあり、キャンプ先でも当然同じ班で行動できた為、天にも昇る気分でした。キャンプでの出来事は後述します。
あと班長の立場を利用して(笑)、班みんなで年賀状を出し合おう!という流れにもっていき、Aさんの住所&直筆年賀状をゲットすることができました。
Aさんはその後、私が小学校の時に好きだったKさんと仲良くなってつるむことが多くなっていたので、Kさんきっかけで(Kさんは当時も私によく話掛けてくれていた)Aさんに話掛けるということもありました。
さらにはAさんの家の隣に住んでいるAくんと(戦略的に)仲良くなり、偶然でAさんとも会えないかなぁと期待しながらAくんの家によく遊びに行ってました。
あと余談ですが当時よく考えていた事が、
Kさんと結婚したら母と同姓同名になる、Aさんと結婚したら祖母と同姓同名になる、ということでした。
他にも、Aさんの苗字の漢字1文字と私の苗字の漢字1文字が合わさった名前の布団屋さんがあり、それを見てニヤニヤしてました。モテない男のバカな空想です。
残念ながらAさんとは中1以降同じクラスになることはなかったので、その後はAさんと同じクラスにいる友達に会いに行くという名目でちょこちょこ遊びに行ってました、偶然で話せる事を期待して。まぁ、話せなくても姿が見れるだけでも楽しかったですが。
高校はお互い別々の高校に進学したので会う事もなく、次に再会できたのは大学卒業後の同窓会で。
で、その時、衝撃の事実を知りました。
高校卒業後、Aちゃんは短大に進学して短大の近くで一人暮らしをしていたそうなのですが、その住んでいた所というのが私が大学時代に一人暮らしをしていた所から徒歩5分くらいのところだったんですしかもその短大の校門の前を、私は毎日通って通学していました。
中学卒業以来、毎年Aちゃんに年賀状を送って近況報告をし合っていたにも関わらず、大学入学をきっかけにきっぱりあきらめて新しい恋を探そうと、年賀状を送るのをやめたのが完全に裏目に出てしまいました。
短大の時は彼氏はいなかったと言っていたので、あのまま年賀状を送り続けていたら・・・ワンチャン付き合えたかもしれないと思うと(使い方合ってる?)悔やんでも悔やみきれません。バカバカバカ、俺のバカ。
特定の男子にはモテモテ
私が細身で身長が低かったからなのかどうか分かりませんが、なぜか、細身で高身長の男子からとても慕われていました。教室移動の時などは、捕まった宇宙人状態になってました。
運動会のダンスでドキドキ
思春期まっただなかだった私にとって、運動会のダンスは最大の楽しみの1つでした。
『オクラホマミキサー』だったと思いますが、男子の輪と女子の輪があり、逆回転で次々とパートナーを変えていくというダンスでした。
このダンスは合法的に女子と寄り添い、手を繋げるというので(言い方はイヤらしいですが健全なダンスです)、好きな子と手を繋ぐために命かけてましたね。
思春期なのでお互い恥ずかしがってきちんと手を繋がない子が多かったのですが、当時の私は真面目キャラだったのでそれを利用して、『注意されるから、きちんとやろう!』と言ってしっかりとニギニギしていました。真面目キャラ万歳!!
で、このダンスであるあるなのが、好きな子の手前で曲が終わる、というもの。私も何度も体験しました。
あと自分的に危機だったのが、人数合わせの為に、背の低い男子が女子側にまわされる可能性があったということ。
当時の私は背が低い方の前から2~3番目だったのでいつもヒヤヒヤしていました。女子側にまわされた日には相手が全部男子になるから、地獄も地獄でしたね。
1年 課外授業 H山研修
基本、班単位で行動するんですが、奇跡的に愛しのAさんと同じ班で班長と副班長という立場で。そりゃ必然的に話す機会は増えますよね。
ただ、山中でオリエンテーリングをやった時は、チェックポイントを一つも見付けられず不甲斐ない姿を見せてしまいました。
しかしそれ以上に悔しかったのが、夜のオリエンテーション。
クラス対抗で色んなゲームをやったのですが、その中に輪ゴムリレーっていうのがあったんですよ。
男女交互に一列で並び、口にくわえた割り箸にに輪ゴムを掛け、手を使わずに渡していくという。
想像してみて下さい。コレ、もうキッスですよ(笑)。コレも今だと大問題な気がしますが、よく許可したなぁ(笑)。
で、この並ぶ順番が問題でして。
愛しのAさんは女子で1番背が低く、私は男子で2番目に低く。男女男女の順番で並ぶとAさんの後ろが私となるハズだったのに、人数の関係上、女男女男という並びになり。。。
オレの方が低くない?と必死にアピールしましたが認められませんでした。この時ほど、もっと背が低ければ!と思ったことはありません。
2年 課外授業 K山キャンプ
確か、2年の時が一番男女の仲が良かったと思います。
そういう関係性もあり、夜の自由時間の時に仲の良かった女子のテントにお呼ばれしたりして。当時は人畜無害と思われていたようでしたからね(笑)。
で、急に外が騒がしくなったので通りかかった学級委員の女子に理由を聞いたら、
『はるきっちゃんには関係ないよ。』
と無理やり作ったような笑顔で言われて。めっちゃキュンキュンしてしまった。
後から他の男子に聞くと、女子の下着が無くなった、と大騒ぎになっていたとのことでした(正式発表は無かったので、真偽は不明)。
その話を聞いて、あの無理やり作った笑顔は、女子のテントにいたオレに気を使ってくれていたんだな、と理解できました。出来る子やねぇ。
修学旅行は京都・奈良
今ならとても興味を持って楽しめると思うのですが、当時は特に印象に残る事もなかったですね。
神社仏閣より、私が楽しみにしていたのが”東映太秦映画村”でした。
当時私は水戸黄門に激ハマり中だったので、あの世界観の中に立ちたい!という気持ちが強かったですね。運が良ければ時代劇の撮影があってるかも!?とのことでしたが、特に何もなく。
しかし、普通にお侍さんが歩いていたのには感動しましたね。
そして修学旅行の楽しみの1つが、夜の”誰が好き?大会”・・・だったんですが、私、あっというまに寝てたそうです。で、直立不動でピクリとも動かないものだから死んでるんじゃないかと心配だった、と翌朝聞きました。寝相、良かったんですねぇ。女子も遊びに来ていたようで、私の寝顔を見た、と言ってました。
そして修学旅行の思い出がもう1つ。
たしかクラスで1名、カメラ係という役割があったんですよ。立候補したのか選ばれたのか覚えていませんが、そのカメラ係に私がなりまして。
今はスマホで簡単に写真が撮れますが、当時はカメラじゃないと写真は撮れず、そのカメラの持参を許されたのが各クラス1人だけで。
で、誰が言い出したのか覚えていませんが、『○○ちゃんの写真があったら買う!』、『△△さんの写真撮ってきて!』と何件ものリクエストがあり、偶然を装ってご指名の女子の写真をちょこちょこ撮ってました。
これに便乗して自分の好きな子も撮りたかったのですが、ちょっと勇気が無かったですね~。
ゲームブックが大流行!
ゲームブックとは、読者の選択肢によってその後の展開が変わる物語です。
中2か3頃、クラスの成績上位の子が作ったゲームブックが回し読みされ、たちまち人気になりました。
それじゃあ私も作ろうとアイデアを練り、世界中を冒険する物語を書こうとノルウェーから始めたのですが、スウェーデン、フィンランドと行ったあたりで、どれも”寒い国”というイメージしかなく、ネタ切れになって断念してしまいました(笑)。
受験勉強にラジオ
受験勉強の時期、成績上位の子に話を聞くとことごとく夜~深夜にかけてラジオを聞きながらやっているというんですよね。
で、ラジオを聴いている人しかわからないようなネタで盛り上がってるもんだから、一体何が面白いんだろうと思って聴いてみることにしました。
・・・撃沈。
実はですね、中学時代というと、私、だいたい22時前には寝てたんですよ。なので、起きてられなくて(苦笑)。
あと、その成績上位の子がラジオで聴いたという歌を面白がって歌ってたんですけど、インパクトが強すぎて(下ネタ)頭から離れません。記事にするとヤバイので、そっと心の中にしまっておきます。
父の大いなる勘違い
仕事で使っていたパソコンを買い替える事になり、元のパソコンを当時生徒に大人気だった先生(私も大好きでよく家でも話題にあげていた)にあげたと聞き、あぁそうなんだと思っていましたが。
よくよく聞くと、父がパソコンをあげた先生はH木先生で、生徒に人気があったのはI木先生で。まぁ確かに似た名前だけども。うろ覚えでパソコンやるなよ~。
後日H木先生に呼び出され、とても嬉しそうにお礼を言われました。あぁ、勘違いだったのになぁと心が苦しかったです。
高校受験、初めての挫折
受験前、なんとか上の下くらいまで成績を伸ばし、余裕を持って合格できる地域2番目の進学校に狙いを定めていました。
ヲタクがまだ日陰者だった当時、進学予定の高校には聖地ともいえる”アニメ研究部”があるということで、何としても合格して、同志と語らい、同じ趣味の彼女を作るゾ~と燃えておりました。
と言いましても余程の事が無い限り不合格になることはない状態ではあったので、私も周りも安心しきってましたね。
なので滑り止めの私立高校受験も、絶対に行くつもりはなかったので99.9%合格できるようなレベルの高校を1校だけしか受験していませんでした。
私立高校には絶対に行かない!と思っていた理由がもう1つありまして、それは”男子校”だったからで。
当時は私立高校といえば、ほとんどが男子校、女子高で、共学の私立高校なんてほぼありませんでした(現在は私が通った男子校も共学になっています)。
自分としては、一番女性に興味が出る高校時代に、女性なしなんて考えられない!と思ってましたのでね。
で、受験当日。
印象としては特に難しい問題も予定外の事もなく、あ、これは合格間違いないな、と。一緒に行った友人の方が自信が無いと言ったので、大丈夫だよ、受かってる、受かってる、と慰めもしてたり。
合格発表の日。
合格者は中学に集まる事になっていて、集まってからの事をあれこれ考えながら友人と行った合格発表で、自分の番号が無いのに気付き、一瞬何が起きているのか分からず、頭が真っ白になっていました。
そこからしばらく記憶がありません。どうやって帰ったのか、どう友達と別れたのか。記憶があるのが、家で父親にめちゃくちゃ罵声を浴びせられていた事です。この罵声は数日続いた後、ピタリと止んだんですが、後に、兄が父親に猛抗議してくれたと母に聞きました。本当にありがとう。
翌日くらいに担任の先生も飛んできてくれて、あの高校を受験した中でトップクラスだった私が不合格だったのが信じられない!と泣きそうになりながら頭を下げていました。
同じ高校に進学予定だった友人達と会えなくなってしまったという悲しみや、合格確実からの不合格という恥ずかしさでもう中学の同級生には会わす顔がないという思いもありましたが、それ以上に3年間女性なし生活というのが本当にショックで、毎日どうやって死のうかばかり考えていました。
そんな空気を察してか、母親は常に私を1人にしないようにしてましたね。母親は偉大だなぁ。
結論から言いますと、その後進学した高校で男子校でしか味わえない楽しみがたくさんありましたし、この高校でしか味わえない体験もたくさんあったので、これはこれで良かったのだと思います。
まぁ、高校時代は女性に全く縁がありませんでしたがね。
卒業式のイメージの違い
まずこの話は合格発表の前だということをご理解下さい。
卒業式が終わり、校門付近で友人数人と話していた時。
そろそろ帰ろうという友人とある事を気にしてなかなか帰ろうとしない私。
理由について、遠回しな言い方をしていた私と理解したと思っていた友人との会話がかみ合わなくなり、ズバリ言ってみると全く違っていて大爆笑しました。
というのも、私が考えていた事は、校舎裏で告白されてまさにカップルが誕生してるんじゃないかという想像(この頃少女マンガにハマりだしていました)で、友人が考えていた事は、お礼参り(ヤンキーが先生に報復する事)だったそうです。
まぁ、そりゃあ話がかみ合わないよなぁ。
習い事
小学校時代からの習字に加え、週1で数学と英語を習うようになりました。
数学
正式な塾や家庭教師ではなく、数学が得意(?)な知り合いがウチに来て教えてくれる、という感じでした。
頭の体操になるから、と勉強の後に囲碁を教えてくれたり、計算だけでは解けないクイズのような問題を出題してくれたりと、ここでも数学を好きになる要素がたっぷりでしたね。
当初は1対1でしたが、次第に近所の子まで来るようになって、塾みたいになりました。
英語
こちらも正式な塾や家庭教師ではなく、なんと小学校時代の校長先生でした。親が勝手に決めてましたねぇ。友人と3人で自転車で40分くらいかけて校長先生の自宅へ行ってました。
勉強が終わると、夏はアイスコーヒー、冬はホットコーヒー(どちらもブラックで)を出されて飲みながらしばらくおしゃべりをするという感じでしたね。
私はコーヒー自体飲むのが初めてで、しかも猫舌で熱いのもニガテで、これが大人の味なんだ、とかみしめながら飲んでいました。
下駄デビュー
ドラマ『裸の大将』、アニメ・マンガ『ゲゲゲの鬼太郎』でなんとなくの下駄への興味がわき、マンガ『究極超人あ~る』で”下駄が欲しい!”に変わりました。
そんな時、地元のお祭りでちょうどしっくりくる下駄を見付け、即購入しました。
それからはもう嬉しくて嬉しくて、どこへ行くにも下駄を履いてました。あの、渇いた道路に鳴り響く、カラン、コロン、カラン、コロンの音がすごくいいんですよね。
ですがお店の中では滑りやすいうえ、都市部でのカラン、コロンには周りの目が厳しくとても履き続けれる状況ではなくなったので、結局、自宅の周りで履くだけになってしまいました。今でも履ける状況なら履きたいんですけどね、
友人が事故死
中学1年の夏休み、小学校6年間同じクラスだった友人が水難事故で亡くなりました。
その友人は生まれつきの障害がある子で、それでも懸命にいつも明るくふるまっているような子でした。
中学で初めて別々のクラスになり以前ほど交流は無かったのですが、帰る方向が一緒だったので会うと一緒に帰ったりしていました。
その日の事は今でも鮮明に覚えています。
午前中に部活があり、自宅でお昼を食べて、部活の友人の家に自転車で向かっていた時。サイレンを鳴らしながら救急車が近づいてくるのに(不謹慎ですが)テンションが上がり、追い抜かれまいと必死に自転車を飛ばし、救急車より先に目的の友人宅へゴールしたのに大興奮していました。
その後自宅に戻り、夕やけニャンニャンを見ていた時、母から友人の訃報を知らされました。不思議なもので、ショックが大きすぎると逆に反応が薄くなってしまうみたいで、『…そう』としか答えられませんでした。
そして当日の状況を聞いた時、後悔と共に不思議な縁を感じざるをえませんでした。
まず、事故にあった場所と時間。見事なまでに部活の帰りに通った川、通った時間でした。しっかりと川を見ていたら、遊んでいたのに気付けたのかもしれません。
そして私が競争していた救急車、あれにその友人が乗っていた可能性が高いのです。テンションが上がったと書きましたが、よく考えると、追い抜かれてはいけない!という気持ちが急に湧いたような気がしまして。最後のお別れをしてくれていたんじゃないかと、今は思うようにしています。
後日、亡くなった友人のクラスで追悼文集を出すということだったのですが、クラスが違う私も先生に呼ばれまして、小学校時代から仲の良かった私にも書いてほしいと告げられました。
その中で中学の先生方が小学校からの引継ぎで、小学校の1~2年でその友人の面倒見が良かった私ともう一人と、意図的に6年間同じクラスにしていたと聞いたそうで、そしてその友人の自立を促すために中学ではあえて私と別々のクラスにした、と知らされました。ちょっと誇らしかったです。
この追悼文集には後日談がありまして。
出来上がった追悼文集をいただいた時担当の先生から『ごめん、あなたの原稿紛失しちゃって…』と。
中を見てみると、原稿用紙2枚分渡していたハズの私の文章が一枚目だけで唐突に終わってまして・・・。オイオイ、再度お願いするとか、全部載せないとかできたでしょうに。他の人にはどう説明したのだろうか?
そしてもう1つ思い出した事が。
大学進学で自宅を出る為部屋の荷物の整理をしていた時、それは出てきました。
私が小学生の時、兄が懸賞で当てたラジコンで動かせるロボット。しかもこのロボット、録音機能も付いてまして、声を録音することができたんです。
ここまで言えばなんとなく想像つきます?
はい。このロボットで最後に遊んだのがこの亡くなった友人とで、この友人の口癖みたいなフレーズが当時クラスで流行っていたので、そのフレーズを言ってもらって録音したんですよね。
それを思い出した時、ご家族に知らせた方がいいのか、逆に知らせた方が悲しみを思い出してしまうからやめた方がいいのか、考えましたが答えが出ず、そのままにしてしまいました。
現在、自宅は無くなってしまったのでその後どうなったのか分かりません。。。
ご冥福をお祈りいたします。
公園で野球
小学校時代は子供会でやらされていたソフトボールが大嫌いだったんですけど、ファミコンのファミスタの影響でゴムボールとプラスチックのバットを使った野球を、兄や友達とよくするようになりました。
と言っても、人数が少なかったので基本打たせてボールが転がった位置からホームに投げ、届いたらアウト、届かなかったら飛距離によりヒット、ツーベースとかやっていました。ホームランは公園からノーバウンドで出たら、ということにしてまして。
そうしたら運動音痴な私でも、時々ホームランを打てたりして楽しくなってくるんですよ。一時期は年単位でホームラン数を競ったりしてました。何度か打てた奇跡的な大ホームランは今でも覚えています。
バットが顔面直撃
やがてプラスティックのバットではもの足りなくなり木製や金属バットを使うようになっていたある日、試合中に、参加しようとやってきた友人の顔面に、別の友人がフルスイングしてすっぽ抜けた金属バットの先端が直撃し、顔面から大流血。慌てて救急車を呼び、病院に運ばれていきました。
あと少しずれていたら失明していたかもしれない、とのことで、それ以降野球は下火になりました。
当事者同士はその後も仲良く付き合いは続いていたので、遺恨は残らなかったようで安心しました。
兄が股裂きで激怒
自宅で兄と2人友人とで”はりつけ”(屋根にボールを投げ、指名された人がボールを取り、また誰かを指名してボールを屋根に投げるという遊び)をしていた時の事。
ボールを追うのに夢中になりすぎた兄が、隣の畑(地面より低い位置にある)に股間を強打して落ちていく様子がたまらなくおかしくて友人2人と大笑いしていたら、激怒した兄が怒鳴りながら友人2人を追い返してしまって、しばらく気まずかったです。
映画館閉館
ドラえもんを見に行っていた、市内唯一の映画館が閉館になりました。この時期にはもうドラえもんを見に行くこともなかったので後で知った事になります。
これがキッカケがどうか分かりませんが、その後しばらく映画館とは縁のない生活でした。本格的に映画館が身近になったのはここから約20年後になります。
・・・いや~、まだまだ何か忘れてる気がする。
思い出したら追記しま~す。
ということで、今回はこのへんで。