伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 84回 承久の乱 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 以前は承久の変と言っていましたが、全国的に軍勢を催しての合戦騒ぎを変と呼ぶのは変なのですが、天皇家が仕掛けて天皇家が惨敗した戦争は、なるべく小さく扱いたいという意識がありました。日中戦争を支那事変と偽ったのと同じです。

 

 後鳥羽上皇は3代将軍源実朝が討たれ、後継将軍に自分の息子をお願いしてきたのを断って、鎌倉幕府を追いつめたつもりでしたが、北条義時は九条道家の三男の三寅を、源頼朝の妹の曾孫になるという理屈を付けて4代目の鎌倉殿に迎えます。

 

 後鳥羽としては九条道家に裏切られたかたちになったわけですが、戦機は去っていないと判断して討幕を進めます。その戦略は、京に大番役で来ている武士を抱き込んで京を押さえる、幕府の有力御家人に北条義時追討の院宣を送り、幕府の有力御家人が院宣に従って北条義時を討ち取り、その首を持って京都にやってくるというものでした。

 

 幕府の有力者を味方にする策として、幕府を潰すとか、守護地頭職を廃止するとかは言わず、北条義時ひとりを追討するというかたちをとることにしていました。この程度の策で、北条氏の専横に腹を立てている者たちは、幕府を自壊させる行動を取るに違いないと思っていたのです。

 

 鎌倉では院宣に従う有力御家人は現れず、北条政子が武士の利権を守ってくれた頼朝の恩を忘れてはならないと演説すると、鎌倉の御家人たちは武力で後鳥羽を討つことで一致し、上洛の軍勢を整えて進撃を始めます。

 

 後鳥羽は院宣が下れば武士はそれを奉じると信じていましたが、かつて後白河がご都合主義で、無責任な追討の院宣を乱発していたので、院宣の信用は下落していて、そんなものに一族の運命を委ねようとする武士はいなくなっていました。

 

 鎌倉から北条義時の首が届くと信じていた後鳥羽は、鎌倉軍が上洛しつつあることを知ると狼狽し、軍勢を搔き集めて美濃へ送りますが、兵力の比は10対1くらいであり、美濃で負け、宇治・瀬田で負けて、鎌倉の軍勢が京に入ってくると、後鳥羽は逃げてきた味方の武士たちを追い払い、この度のことは臣下の者が勝手にやったことで自分は知らないと言い、北条義時追討の院宣を取り消し、京方の大将だった、藤原秀康、三浦胤義追討の院宣を出すという酷いことをやっています。

 

 北条義時は後鳥羽を隠岐へ流しますが、朝廷は潰さず、高倉天皇の二男で出家していた行助法親王の子の茂仁親王を後堀河天皇として擁立し、行助法親王に太上天皇の尊号を贈って院政を開かせます、人を入れ替えただけで天皇家は残したのです。

 

 承久の乱は天皇家の惣領が起こした騒乱であり、天皇家を潰す千載一遇の好機でしたが、北条義時にそれをやる度胸がなかったのです。ここで天皇家が潰れていれば、神武天皇のY染色体などという戯言を聞かなくて済んだはずであり、なんとも残念な戦後処理でした。