伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第80回 鎌倉幕府  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 幕府は、将軍が遠征先で建物ではなく、幕を張った場所で占領地の行政を行ったところから来ており、中国の故事によるものであって日本独自のものではありません。幕府が政治的に乗り越えた律令制にしても中国から輸入したもので、日本の社会の仕組みも名称もみんな中国からの借り物です。

 

 征夷大将軍が敵、鎌倉幕府が成立した時点ではその敵は平泉の奥州藤原氏でしたが、を討つために全ての武士を率いて遠征している、率いられた武士たちはその命令に従い中央政府の命令には従う必要はない、そういう建て前の上に幕府という虚構は成立しています。この虚構は江戸幕府が潰れるまで日本の政治原理として続きます。

 

 京の武士と地方の武士との関係は、権門に口を利いてやるから子分になれといったものでした、それが源頼朝によって、領地を安堵してやる、地頭にも守護にも任命してやるから将軍の家来になって、幕府の軍事動員に応じよ、鎌倉での普請や作事に奉仕せよといったかたちに変わります。ご恩と奉公と呼ばれる主従関係が成立するのです。

 

 これが出来るようになったのは、頼朝が後白河院から守護地頭を設置する権利を取ったからであり、武士の官位は将軍が奏請した場合によって与えられる、朝廷が直接武士に与えることは認めないと言う原則を確立したからです。これによって武士の自治が確立して、京の朝廷と並び立つ政権が鎌倉に出来ることになります。

 

 平氏は朝廷とは別の武士の政権といった方向には行かず、権力を手に入れると、受領や知行国主といった儲かる役職を貴族たちから奪い、武士がなる荘園の現地管理者ではなく、名義貸しの領家や本所職を摂関家から奪い取ることを行いました。この国の富を一族で独占すれば、地方武士などは黙って従うと平清盛は考えていました。

 

 少年のころに伊豆に流罪になった頼朝は、地方武士に接してその望んでいることを充たす方向で努力する以外に、没落した京の武士の自分が世に出る方法はないということに気が付いたのです。平清盛は賢い人で政局を勝ち抜く才覚はありましたが、宋との貿易で稼いでいた富裕な平忠盛の子として育てられ、白河院の落胤として家のなかでは特別扱いされてきた人生の中で、地方武士の生活感覚を知ることはなく、中央政府で権威を極めて富を集めれば、誰しもが従って来ると考えていたのです。

 

 地下人と見ていた地方武士が、流人を押し立てて反逆することなどあり得ないと思っていたのが、実際に起きてしまったので、清盛からは政治的妥協策は出て来なくて、武力討伐しかないといった硬直した方針となり、権力で無理に動員した討伐軍は、動員された武士にやる気がないので弱く、惨敗を喫して京を放棄しなければならない事態になってしまったわけです。