伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第65回 平家の登場  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 都の武士は、六孫王経基の子孫が摂関家に仕えることによって、国司を歴任して所領も増やして、その立場を独占した感じでしたが、院政の時代になって平家が登場して来ます。

 

 平将門に攻め滅ぼされた常陸平氏の国香の子に貞盛という人がいて、下野の藤原秀郷と共に将門を討つのですが、その四男に維衡という人がいて、この人が伊勢平氏の祖になります。伊勢へ移った時点では、皇族だった高望王との血縁も遠くなっていて、六孫王の子の源満仲に比べると不利で、都の武士として朝廷に入り込める要素は小さかったのですが、身勝手な独裁者の白河法皇によって取り立てられます。

 

 平貞盛の四男が維衡で、伊勢に移住して、その子が平正度で、ここで伊勢と伊賀に幾つかの荘園を得て経済基盤を確立し、その子の平正衡が都に出て検非違使などになって朝廷とのつながりを持ちます。都での勤務は無給で費用は自弁でしたから、伊勢と伊賀の荘園の収入があってのことです。

 

 平正衡の子が平正盛で、摂関家が持っている満仲系の源氏の武力に対抗したいと考えていた白河法皇が、この平正盛を重用します。西国の海賊退治の功績があり、源義家の子で、出雲で謀叛を起こした源義親を討伐して、一躍時の人になり、但馬守、備前守などを歴任することになります。

 

 軍事行動としては、源氏が戦った前9年の役、後3年の役に比べると小さなものですし、退治したとされる海賊の首は別人のものだったとか、源義親も討ち取っていないとか、良くない風評がありましたが、白河法皇はそれを無視して平正盛を引き立て、院政の武力として育てます。

 

 平正盛の軍事行動には記録がなく、どうやって討ち取ったかも不明なのですが、表に出したくないやり方で行なわれたのではないかという推測も成り立ちます。海賊には銭を渡して暫く静かにしていろと指示して、別の罪人の首で世間を誤魔化す、義親を支援している者たちを買収して、寝首を掻かせて持って来させる、そんなことだったという感じもしますが、それがやれるのもひとつの才覚ですから、そうだったとしても正盛がダメだったという話にはなりません。

 

 平正盛の子が平忠盛で、白河法皇は自身の胤を宿した女性を側室として忠盛に下げ渡すのです。現代人ならば、他人の子を自分の子として育てるなんて嫌だと思いますが、昔で相手が絶対的な権力者ですから、その子を家の跡継ぎにすれば、家の繁栄は約束される、これは大変な優遇だといった話になり、忠盛もそう思ったはずです。