伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第64回 都の武士  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 平将門の乱で見たように、地方の武士は皇孫のような地方では珍重される血筋の者を、国府の課税から逃れたい中小地主が担いだもので、そういう人に土地を寄付したことにして、所有権の保護と減税を狙ったことによって、武装した農場主集団として成立しました。皇孫と言っても地方官崩れですから中央の権門には顔が利かず、国司の私有地への介入に抵抗するのがせいぜいでした。それが土着武士団になって行きます。

 

 それとは別に都の武士も登場します。先ず出て来たのが、平将門の乱でも登場した六孫王経基で、皇籍を除かれて源経基になり、子の源満仲は摂津多田荘に土着します。後世、多田の満仲武士の初めと言われましたが、都に常駐する武士としては満仲が最初の人になります。

 

 969年の安和の変で、満仲が橘繁延と源連が皇太子守平親王を廃太子させる謀叛を企てていると、関白藤原実頼に密告して、左大臣源高明が失脚しています。満仲は高明方だったとも言われており、寝返って藤原摂関家に付いたという見方もあります。これを機会に、満仲は摂関家に出入りするようになり、武士としては異例の正五位下に叙位されています。

 

 摂関家に出入りするようになったと言っても、摂関家から禄をもらうのではなく、活動費は全部自分持ちで摂関家のために働くのです。在京して活動する経費は多田荘の年貢です。無償の奉仕ですが、それをやることによって武家としての地位の向上が望めます。摂関家は満仲が持つ個人的な武力を、対立する人たちへの脅しに使い、密告のような汚れ仕事をやらせるのです。

 

 満仲の長男が源頼光で、大江山の酒呑童子を討った話は有名であり、藤原道長に近侍して国司を歴任することによって富を集めますが、その子孫は活動範囲が畿内に留まったために勢力は伸びませんでした。

 

 満仲の二男の頼親は、大和に根拠地を持とうとしますが、興福寺と争い土佐に流罪となって消息が消えます。

 

 満仲の三男が頼信で、河内壺井荘に本拠地を置きますが、上総平氏の平忠常が謀叛を起こすと追討使になり、短期間で平忠常を降参させ、自分の子分になる約束で謀叛の罪をチャラにするという、鮮やかな対応をやってのけます。その子が頼義で、父が作った関東での人間関係を引き継ぎ前九年の役を戦い、頼義の子が義家で、後三年の役を戦い、この三代の功績が大きかったので、満仲の三男であった頼信の系統が武家源氏の正嫡と世間から見做されるようになります。