伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第63回 叔父子  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 叔父御という言葉は辞書にありますが、叔父子いう言葉は辞書にありません、鳥羽天皇による造語です、叔父子と名指しされたのは崇徳天皇です

 

 白河法皇の子が堀河天皇で、この人は天皇家の惣領にならないうちに亡くなっています、その子が鳥羽天皇で、白河法皇はその中宮の璋子に手を付けて妊娠させてしまいます。孫の嫁に手を付けるのですから、権勢に驕った白河法皇がいかに無軌道な状態になっていたかが分かります。摂関家でも歴代将軍でもこんなことをやった人はいません。

 

 白河法皇は自分のやったことを知らぬ顔して、中宮璋子の子を鳥羽天皇の子として皇籍に入れます。そして孫の鳥羽天皇を退位させて、公式には自分の曾孫で、本当は自分の子を崇徳天皇として僅か4歳で即位させます。退位した鳥羽上皇は、院政をしている白河法皇に天皇家の惣領権を握られている、無役の上皇になり、天皇になった崇徳を叔父子と呼び憎悪を募らせます。祖父の子だから父の弟で叔父だが、公式には自分の子ということで、叔父子という言葉を作ったのです。

 

 白河法皇は、身分の低い祗園女御の妹とされる女性も側室にしており、妊娠すると腹のなかの子諸共に院に奉仕していた武者の平忠盛に下げ渡すということもやっています。その時に腹のなかの子が平清盛です。

 

 武家の作法では、正室の第一子が家を相続するのことになっており、それで言えば四男の頼盛が正室の池禅尼の第一子なので平家の相続人になるはずで、側室の子で庶長子になる清盛には相続権はないのですが、清盛は生まれたときから平家の相続者と決まっていて、官位も武家としては異例の昇進を重ねて、若いうちに父親の忠盛を追い越しています。父親が現役のうちに、子が父の官位を越えるのも通常はあり得ないことですが、白河法皇の胤であれば、相続も官位の昇進も説明がつきます。

 

 白河法皇の勝手放題を堪えていた鳥羽上皇は、白河法皇が77歳で亡くなると、天皇家の惣領の地位に就き院政を開きます。祖父の白河法皇に妻を奪われ、叔父を子として押し付けられても白河法皇には指一本指せなかった鳥羽上皇は、叔父子の崇徳天皇に対して復讐を始めます。

 

 院政の主の権限で、22歳の崇徳天皇に譲位をさせ、自分の実子の近衛天皇を即位させます。崇徳上皇の子には天皇の位は回さない、崇徳上皇には院政もやらせないと決めたのです。鳥羽上皇にとっては当然の仕返しでも、崇徳上皇にとっては、自分の責任でないことによる理不尽な扱いであり、公式には父親ということになっている鳥羽上皇を深く恨むことになります。