武蔵で起きた興世王と武蔵武芝の紛争に対して、下総から将門が出かけて行って仲介します、無位無官ながらもそれだけの実力をもっていたということであり、関東では国府を頂点とする秩序とは別に、とれだけの武装した領主を動員できるかといった、基準が生まれていたことを示しています。
興世王と武蔵武芝の手打ちのときに、武蔵介として席に連なっていた六孫王経基の陣を武芝の兵が囲むという事態が起き、経基は都に逃げ帰り調停に、将門、興世王、武芝が謀叛を起こしたと訴えます。この時には、関東の国司が揃って将門を擁護したので逆に誣告で経基が処罰されます。どちらが正しいかということではなく、将門の機嫌をとっておかないと国府の運営が厳しくなるような状態になっていたのです。
武蔵守百済王貞連に国府を追い出された興世王が将門のもとに転がり込んできて、常陸で国府と揉めていた藤原玄明という者が将門に庇護を求めて来ます。将門は兵を率いて常陸国府へ赴き藤原玄明を赦免するように要求しますが、国司が拒否すると軍事行動に出て、国司を追い払って国府を占領します。
これをやってしまえば謀叛になるのですがどうして将門が、縁の薄い藤原玄明のためにそこまでやったのか。藤原玄明がどうというよりも、配下にいる武装領主たち、郎党とか伴類とか呼ばれていた者たちですが、その者たちの国府に対する不満や怒りが高まっていて、この際だからやってしまえという雰囲気に乗ってしまったのではないかと思います。
興世王が、1国を討っても罪は重い、ならば8ヶ国を取って自立せよと煽り、将門とその一党は関東平定に動き出します。将門が行けば国司が逃げ出すという状態でごく短期間に関東は将門の手中に落ちます。
将門は新皇と称して関東の天皇であると宣言し除目を行ないます。
下野守・平将頼(将門の弟) 上野守・多治経明(伴類) 常陸介・藤原玄茂(常陸掾)
安房守・文屋好立(郎党) 上総介・興世王 相模守・平将文(将門の弟)
伊豆守・平将武(将門の弟) 下総守・平将為(将門の弟)
国司を任命しただけで、8ヶ国を束ねる統治機関の人選はなく、これでは政府の機構になっていません。この謀叛の某主は興世王ですから、上総などへは行かず、将門の側にあって統治機関の責任者になるべきです。将門の叛乱が新政権の樹立を目指したものでなく、武装領主たちの反国府の気分によって行われた、国司征伐であったことを示しています。
軍兵を帰郷させ将門の本営が手薄になったときに、国香の子の平貞盛が下野の藤原秀郷を誘って兵を上げ、将門は討ち取られることになります。将門個人の合戦の強さのみに頼っての暴動に過ぎず、政権構想も統治原理も持たないものでした。