伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第55回 小さくなる信心
聖武天皇が大仏を造った目的は国家鎮護でした。国家鎮護どころか民衆に対して塗炭の苦しみを強いる馬鹿げた巨大公共事業になったわけですが、本人的には大仏が造られたらその功徳で国家が安泰になると思っていました。
桓武天皇は肥大化した寺院を奈良に置き残したままで、平安京への遷都をしました。都市の飾りとして東寺と西寺は計画に入っていましたが、最澄が唐から戻って来ると王城鎮護の寺として延暦寺を造らせます。王城鎮護のつもりで創建したのですが、延暦寺は平安京に祟る悪鬼羅刹のような存在になります、宗教などいつの時代でもこんなものです。
全盛を極めた藤原道長は法成寺を、藤原頼通は平等院を建立していますが、阿弥陀如来が中心に来る様式で、自分が極楽往生するための寺でした。
寺の目的が、国家鎮護から、自分が住む王城の鎮護になり、自分一人の極楽往生を願うものに縮小されて行くのです。権力者の志が低くなったと言えますが、庶民にとってはそれは良いことでした。
奈良の大仏造りは国家鎮護ですから国家事業として行われ、多くの庶民が往復の食糧自弁で動員されて死亡する事態になりました。王城鎮護の延暦寺は国営ではなく、天台教団の事業という位置づけで、塔頭の工事も順次行われましたから、建設時の庶民の負担は大きなものではありませんでした。
法成寺や平等院は摂関家の私寺ですから国家事業ではありません、費用は摂関家の荘園からの年貢で賄われ、労働力も労役などではなく、京とその周辺の民衆を日当を払って調達するかたちになりましたから、奈良時代の寺院建設とは違って、庶民の直接の負担は小さなものでした。
平等院の阿弥陀如来は今でも残っていて姿の良い仏像で、平等院も優美な建物ですが、仏像も建物も、奈良時代のものとは規模が違います。権力者の志も、作る仏像や建物も、縮んで行くのが平安京の世の中であり、庶民の負担も小さくなって行きます。
仏教も国家を守るものから王城を守るものに、権力者一人の極楽往生を約束するものにと、その役割を縮小して行きます。