平安朝の外国と国防  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第51回 平安朝の外国と国防  

 

 平安京の朝廷の特徴の一つに、外交をしなかったことがあげられます。大和時代の朝廷には、任那への思いが残っていてなかなか朝鮮半島内の領地を諦めることが出来ませんでした。応神天皇は任那からやって来たとの説もあって、天皇家の故地だから手放せないとの気分もあったのかも知れません。

 

 派遣された遣唐使が、長安で新羅と席次を争ったなんて話もあって、東アジアでの国際的地位に関しても敏感に反応する体質も持っていました。それが平安京に移ると遣唐使は廃止され、新羅との関係も、敵対でも友好でもない無関心なものになって行きます。任那への思い入れも完全になくなります。

 

 奈良時代の神亀4年(727年)を初回として、34回渤海使が日本にやってきます。朝廷は能登の松原の客館を建てて歓迎して、13回は使節を送る使いを立て、贈り物も多量に持たせますが、新羅を軍事的に南から牽制してほしいとの渤海国の要請には最後まで応じませんでした。遣唐使を止めたあと唯一国交があったのが渤海国でしたが、それも向うからやって来るのを受け入れるだけで、積極的に日本からの交際は求めていません。

 

 935年に朝鮮半島の王朝は、新羅から高麗に変っています。戦乱があって大変だったのですが、平安京の朝廷は無関心でした。動乱に付け込んで任那を奪回してといった気分にはなっていないのです。侵略する気持ちなど欠片も持たない政権でした。

 

 寛仁3年(1019年)に刀伊の入寇があり、対馬、壱岐、筑前、肥前を荒らしました。国軍がない日本は、地元の民間の武装集団を搔き集めて、太宰権帥が防戦して、悪天候にも助けられてなんとか大宰府を守ることが出来ましたが、朝廷の公卿たちは海外の情勢には無関心で、公卿詮議では、討伐の太政官符が発行される前の防戦だから恩賞の対象にはならないという意見と、それでは地元の者の励みにならないから恩賞を出すべきとの意見が対立して、今後のこともあるから少しだけ恩賞を出そうといった結論になりました。

 

 今後の対策とか、被害者への補償とかいったことは議題にも上らず、刀伊がどこから来たのか探ろうという意見も出ませんでした。徹底してなにもしない外交と国防でしたが、その後の侵攻はなく、人は数百人が殺され、千数百人が拉致されましたが、それで終わっています。

 

 刀伊の入寇も領土が奪われるようなことはなかったので、外交と国防をやらないとの選択は、外交と国防にかかる費用を考えると費用対効果としては、来ない敵に備えて防人を動員して帰路の食糧を用意せずに庶民を死なせた、奈良朝の政策に比べると、結果的には賢いものであったと言えます。