紀元節その2 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 何年か前の紀元節に、神武天皇の紀元前660年の即位を史実だと主張している者に、即位の日は1月1日だったというが、暦が伝来したのは欽明朝のころか推古朝のころだと言われている、暦がないのにどうして1月1日が認識できたのかと言ったら、暦などなくても正月くらいは分かると言い返してきました。

 

 正月というのは、永続する時間を人為的に区切ったものなので、暦がなければ知ることは出来ない、と馬鹿にでも分かるように説明したのですが、その者は理解出来ず、正月くらいは分かったはずだから、即位は事実だと言い張っていました。

 

 仮に正月が分かったとしても、紀元前660年は、東周の時代でいわゆる春秋と呼ばれるころで、斉の桓公より少し後で、晋の文公よりも少し前と言えば、春秋5覇で有名な人なので、凡その時代は日本人にも分かります。

 

 中国古代の暦では三正と謂れ、夏暦、商暦、周暦があって、夏暦では1月、商暦では12月、周暦では11月が正月でした。仮に神武天皇が何らかの方法で正月を知ったとしても、遥か以前に使われなくなった夏暦ではなく、その時代に使われていた周暦だったはずですから、目出度い正月に即位しようとすれば、11月1日でなければなりません。アジアでは正月は中国で作成された暦で規定されますから、当然こうなります。

 

 その点では日本書紀の製作者もやってしまっているのです。中国の暦は、秦が10月を正月にしていましたが、漢が夏暦に戻してからは、一貫して1月が正月になりました。日本書紀が書かれた時には1月で正月が定着してしたので、神武天皇が、革命があるとされた辛酉の年の正月に即位したことにすれば、これは1月1日だと書いてしまったのです。

 

 つまり神武天皇が紀元前660年の暦を知っていて正月に即位式を挙げたのであれば、当時行われていた周暦に従って11月1日であったはずです。それを1月1日としたのは、夏暦が定着してそれに馴れてしまった人間の感覚であり、神武天皇の即位の記録は8世紀の日本書紀編纂時のものなのです。

 

 そういう点では日本書紀は当時の日本人の知識不足が反映しているともいえます、闕史8代の天皇の異常な長寿もすぐにバレる年代の引き延ばしてあり、こんなお粗末な偽史を信じてあれこれ言っている、現代のネット民は常軌を逸した愚か者です。