パーティー券の裏金問題で逮捕された、愛知3区(当選は東海比例)の池田佳隆衆院議員は、最初に選挙に出たときに、道徳教育の推進を看板にしていて、ならぬものはならぬとする教育を行なわねばならないと言っていました。
経済や生活を良くする政策を持たない者に限って、国防や教育を言うものであり、国家だ道徳だと言っている者に限って、裏へ回ると違法行為をやっているのが日本の政治の現実です。
そらまめ・ブーツと名乗っている、自分は創価と言っている、ならず者のネトウヨと仲良しの変わった者がいて、私が、創価の勢力拡大は福祉制度を利用したものではないかという記事を書いたら、そこに絡んできて、池田先生の(池田つながりですが)批判は許されない、ならぬものはならぬと言って来ました。
パーティー券の裏金問題で逮捕された池田佳隆議員と、創価でならず者のネトウヨと仲良しという変わった者が、ならぬものはならぬで繋がったのです。両人ともに、民主主義や個人の自由に対する認識が拙劣で、権威権力で人を支配できると考えているのです。
ならぬものはならぬとしてしまえば、ならぬものを決めた者の意志に他の人たちは従うことになるわけで、個人の自由な意見や発想は否定されることになります。
池田佳隆衆院議員は、政治が道徳教育という名目でならぬものを決めれば、そこから外れる価値観や意見はならぬと否定できると考えていたわけで、そらまめ・ブーツなる者は、創価に対する批判やならぬものであり、自分がならぬと否定すれば、それを止めさせることができると考えているのです。
個人の価値観や言論が憲法で保障されているという民主社会の原理が理解出来なくて、政治や教団にならぬものを決める権限があって、ならぬものに触れた言動はならぬと禁止することができるとこの二人の感覚ではなっているのです。
自民党と公明党は長期に渡って連立を組んでいますが、それが続いている根底には、民主主義や個人の自由に対する認識が拙劣さという共通点があってのことのように感じます。