宮廷建築 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第25回  宮廷建築 

 

 持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京に住まいを移したのは694年のことです。このときに天皇が住む場所の名が、なんとかの宮から京に変わります。藤原京、平城京、長岡京、平安京といった表記になるわけです。

 

 藤原京は、天武天皇が新しい都の地を捜せと命じたのが676年で、持統天皇が移ったのが694年ですから、天武天皇の死による工事の中断を含めると、になりますが、企画から完成まで18年かかっています。

 

 それまでの宮は新しい天皇が即位すると建設されて、ごく短期間に完成して天皇が移住しています。掘っ建て柱の茅葺であったので建築が容易で、天皇の死後には放棄されるのがふつうでした、これは死の穢れを嫌ったものと考えられています。天皇の住いは1代限りの使い捨てであったのです。

 

 1代限りの使い捨ての宮では、天皇の生活は賄えても、諸役人が大勢暮らす官衙の発展は望めません。藤原京以前の天皇の統治機構がごく簡素なものであったことが推察できます。天皇は大王と呼ばれ、大和と河内の豪族の上に乗っかっていた存在で、豪族が自分の屋敷から大王が住む宮に出仕して国政を見るかたちで、大王直属の官吏は少なくて、中央政府の行政に関する事務は有力豪族の家来がやっていました。特に蘇我氏の全盛時代には、蘇我氏の屋敷が政府の政庁で、大王の住いは祭祀のための施設になっていました。

 

 大化の改新で天皇権力が大きくなると、それまでの簡素な宮では行政機構が収まらなくなって、永続性のある京が必要になり、古い慣習を否定することが好きな天智天皇が大津京を企画しましたが、壬申の乱で潰れ、天武朝には飛鳥浄御原宮に戻り、持統天皇ときに藤原京でようやく中央政府の機能を収容できる施設になります。

 

 分かり易く説明すると、なになにの宮と呼ばれる施設は伊勢神宮のような建物で、京の場合にはその中心に来る建築は、礎石の上に柱を立てて屋根を瓦で葺くもので、法隆寺のような建物と思えばそんなに遠くはありません。

 

 伊勢神宮は日本古来の建て方であり、法隆寺は朝鮮半島から伝わった建て方です。日本古来の建築では大きくなった行政機構が収容できない、朝鮮半島から伝わった建築でなければ政庁にはできないといったことになったわけで、日本古来の建て方が建物の基本としてダメだったのかが分かります。