藤原氏 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第24回  藤原氏 

 

 藤原氏を名乗る人の家系図は、天孫降臨に従ったとされる天児屋命が最初にあって、そこから飛んで大織冠藤原鎌足がきて、淡海公藤原不比等がきて、そこで分かれる、北家、南家、式家、京家を各自の先祖とするかたちらなります。天児屋命はあとで創作されてものに決まっていますから、鎌足以前はよく分からない家なのです。

 

 中臣鎌足が56年の人生のうちで藤原鎌足であったのは1日だけです。死亡する前日に藤原姓と大織冠と内大臣を天智天皇より授けられました。

 

 蘇我入鹿惨殺後に鎌足は内臣(うちつおみ)に任ぜられますが、これは官制にはない職で、中大兄皇子の私的な参謀役でした。豪族としての家格が低くて、なまじ官職に付けると、下の官職になって中大兄皇子から遠い立場になってしまうので、いつも身近に置いて於ける私的な参謀役にしたものと考えられます。

 

 入鹿惨殺時に20歳と経験不足の中大兄皇子の政治判断の多くが、鎌足の知恵に頼ったものであったと思われますが、資料がないので推測するしかありません。陰の存在で、権力者に入れ知恵をしても、なにを行なったのかが歴史に現れない、見事な参謀役であるといえます。

 

 藤原姓は鎌足の子孫だけに限定され、一族は中臣氏のままでしたから、日本最大の一族である藤原氏は鎌足1人から始まったのです。源平藤橘と言いますが、源平橘は皇別であり、藤原氏のみが神別の家で皇室の分家ではないのですが、佐藤さんが日本最大の姓であるように、藤原系はもの凄く多く多いのです。

 

 日本書紀の編纂は鎌足の子の不比等によって主導されました。日本書の世家を製作するために集められた諸豪族の家の記録は、返却されず、世家も作られず、諸豪族の歴史は闇の中に消えてしまいます。これは不比等が意図的にやったことだと考えられます。諸豪族の記録が世にあれば、中臣氏が至って家格の低い豪族であることが分かってしまう、無くなれば、中臣氏の先祖は天皇の先祖と一緒に高天原から高千穂に降臨しており、始めから天皇家に最も近い臣下だったという嘘も成立します。

 

 奈良時代に四つの家に分かれた藤原氏は、平安時代に入ると分家を次々と作って、朝廷の主な役職を一族で独占するようになります。大和朝廷が始まったことからあった古い豪族は、藤原体制のなかで没落して行きます。そして藤原氏と天皇家が近親婚を近代まで重ねることになります。

 

鎌足や不比等に軍事で活躍したという記録はなく、政治的な駆け引きだけで権力を握り、それを維持発展させる間にも軍事を殆ど用いなかった藤原氏の伝統は、開祖から一貫している印象があります。