ある時、私が学校をサボって又口橋の川べりで煙草を吸っていると、川が声を掛けてきた。
汚い泥の沈んだ水面をきらきら揺らしながら、
「自分の名前を忘れちゃったんだ。」
と言う。
「馬鹿かお前。そこに鳥山川って書いてあんだろ。」
私は橋の近くにある看板を指差して、不躾に言い捨てた。
「違うんだ、そうじゃない。」
川は悲し気に呟いた。
曰く、海とか川というものは、人や物の思い出が漂っていて、時間が経つにつれ泥となって深部へ沈んでいくのだという。
それを鯉や鴨が掘り返してぐちゃぐちゃにするものだから、川は色んな記憶が混じってしまって、自分の本当の名前を忘れてしまった。
「君の名前はなあに?」
と訊かれたので、
「あるけど、嫌いだから言わない。」
と答えてやった。
「どうして?名前があるなら、いいことだよ。名前が無いより、少しはましさ。」
「馬鹿言え。気に入らない名前を付けられたから、お前だって名乗るのが嫌になったんだろう。」
川は子供が口を尖らせて拗ねるみたいな口調で、ちぇっと舌を打った。
「ねえ、一緒に僕の名前を思い出すのを手伝ってよ。」
「ドブ攫いしろってのか?」
私は仕方なく、柵を乗り越えて、川辺に近付き、その水底を覗いた。
「本当だ。こんな汚れてちゃ、仕方ねえやな。」
そのあまりの汚れっぷりと悪臭に、思わず素直な感想が口を突いて出た。
川に手を突ッ込んでみると、温く、ぬめった感触がした。油の塊を触っているみたいだった。
「それが思い出だよ。」
「お前の中、こんなんばっかか。かえぇそうにな。」
「そんなことない。僕はずっと波打ってるだけ。形は何も変わっていないよ。」
川は存外、前向きそうであった。
それから火の着いた高い煙草を放ったまま、川の底をどんどんと攫っていった。
空き缶に、煙草に、コンビニ弁当のゴミ。何があったか、宝石店の指輪とネックレス。小動物の骨。私が通う学校のジャージまで、皆、ずぶ濡れで眠っている始末だった。
「せっかく新横浜に流れてるんだから、横浜ニューレイクとかになりたい。」
川はふざけた願望を口にした。いや、そこは「名前なんて関係ないよね」的なオチに持っていくんじゃねえのかよ、と私はツッコミを入れたかったが、作業に夢中になっていたので、わざわざ口には出さなかった。
その内に、読めなくなった雑誌だとか、自転車のパーツを見つけ出しては、片っ端から川辺の草原に投げ出した。
膝まで川に浸かって、そういえば制服を着ていることを思い出した。こんな時だけ、スカートであることが便利だった。くっだらねえ。
「どう?分かりそう?」
「分かんねえよ。」
どれだけドブを掘り返しても、川の名前とやらは分かりそうになかった。だから鳥山川だろ。
こいつは何をさせたいんだ。段々イライラしてきて、それでも何故か手を止められなかった。
陽が傾いてきても、私は尚、川底と格闘していた。
「おい、もう諦めろって。」
疲れ切った私がそう声を掛けると、
「確かに、もういいかも。」
と、川はあっけらかんと答えた。どうやら満足したらしい。
「お陰でちょっと綺麗になったし。もういいかも。」
最初からそれが目的かよ。私は再び癪に障る思いをしたが、川相手に怒りをぶつけたところでどうにもならないと思い直した。
「見て見て、日産スタジアムが光ってる。」
川は無邪気に、夕陽を眺めていた。
「毎日見てるだろ。」
「でもまだ二十年くらいだから、新鮮だよ。」
なるほど、自然からしたら人間の営みなんてその程度のスパンらしい。私が猫をずっと眺めていられるのと同じなのだろう。
「もう俺、帰るから。あと適当にやっといて。」
「ありがとう。僕も次はもっといい名前を考えておくね。君、明日も来るでしょう?」
「お前が話し掛けてくるなら、来ない。ヤダ。うっとうしい。」
「じゃあ、話し掛けない。その代わり、僕の名前を思い出すのを手伝って。」
「もうドブ攫いはしねえ。」
「それでもいいよ。でも忘れないで。」
私は踵を返して、母になんて説明しようと思いながら、スカートの端をしぼった。
川の底で懐かしいゲームのコインを見つけたので、それだけネコババした。
それから、吸いかけの煙草を川面に向かって思い切り放り投げた。
次の日、同じように川辺で煙草を吸っていても、宣言通り、川が声を掛けてくることはなかった。
その代わり、昨日、私がドブ攫いした部分だけが、そこだけぽっかりと空を切り出してコピペしたみたいに、きらきらと輝いていた。
私はその光景が、何だか誇らしかった。
その時、ふと思いついて私は、学生鞄から生徒手帳を取り出して、川へ向かって放り投げた。
柵を越えて着水した私の名前は、空を映した水面でしばらく漂っていた。
私は胸を張って、煙草を吸った。
終.