『或る剣』
剣は海深く眠っていた。
剣はある時は英雄となって世界を救い、ある時は兵器となって世界を混乱させ、ある時になって神への供物として海に葬られた。
地上では、剣の贋作が、豪奢な祠の奥に奉られて、人々の祈りを一身に受けている。
本物である剣は真作でありながら、しかし、二度と地上に上がって、誰かに授けられることもない。
剣は美しい鈍色の刀身に、どこまでも届く陽の光を浴びながら、魚達の姿を映しながら、ただ深く深く沈んでいった。
あの英雄はどうしているだろうか。あの剣士はどうしているだろうか。あの王はどうしているだろうか。
剣の想い出の結末が届くこともない。ここは深い深い、暗い海の底。
遥か遠くから人々が争う音だけが聞こえてくる。海が揺れて、熱を帯びた砲弾が自分よりも速い速度で水底へ落ちていく。
剣はどんどん冷たくなっていった。いつからか自分の温度すら感じなくなった。
刃はぼろぼろに崩れ、煌めていた柄も錆びついていき、最早地上に居た頃の面影は宿していなかった。
だがその刀身だけは、いつまでも真っ直ぐに、陽の光を浴びていた。それだけが、自分がただ一つの宝剣である証明だった。
沈んでいく途中、剣はとある遺跡に巡り会った。
剣が生きていた時代から数百年ほど前に、地震と水害によって崩落した、さる文明の神殿だった。
どれもが輝くエメラルドでできていて、剣と同じく、海面から届く僅かな陽光に穴を空けられるようにして照らされながら、泰然と横たわっている。まさしく神の寝所のようだった。
そこには極彩色の小魚や、獰猛な鮫が息づいて、辺りを悠々と泳ぎ回っていた。
まるで今も神殿は生きていて、誰かに見つかるのをじっと待っているようだった。
剣は、ああなれるだろうかと、ぼんやりとした羨望の目で神殿を眺めていた。
剣はとうとう、遺跡の柱の間にある、珊瑚礁の中に突き刺さった。
その切れ味は衰えず、もと居た珊瑚を押し退けるようにして土の中へと潜っていったので、周囲の生き物たちは嫌な顔をして鼻を摘まんだ。
今頃は、剣の贋作が地上で崇められているというのに、真作の剣ときたら、まるで厄介者扱いだった。
しかし剣は孤独ではなかった。
近寄るものが全て傷付いて、すぱっと真っ二つになったって、構いやしなかった。
だってそのように造られたのだから、そうなるのが当然だった。
あのエメラルドの神殿がいつか、もう一度人目に触れるまで、ここに居るのかもしれないと思った。
ぱっくり割れた珊瑚礁に居座って、そのまま百年が経った。
海には生き物の代わりに人間が捨てた廃棄物が漂うようになった。天を仰げば重油の虹色が移ろっていた。
五十年が経った頃、一人の人間が泳いでエメラルドの遺跡を見つけた。
それからまた数十年経って、剣はエメラルドの遺跡と一緒に、重機でごっそり地上に掬い揚げられた。
人々は遺跡の中に隠されていた剣を掲げ、神の奇跡と呼び、海辺の町に新たな博物館を作って、そこに剣を華々しく展示した。
剣はもう陽の光を浴びなくなってしまった。
気ままに漂うこともなく、誇り高く佇むこともなく、ただ剣は、人工の蛍光灯の下で、衆目に晒された。
その頃にはもう既に剣は、芯から腐ってしまっていて、二度と剣としての役目を果たすこともなかった。
人の手に触れて血を吸うこともないし、誰かに振るわれることもない。
剣は博物館の窓から時折風に乗ってくる海の香りがひどく懐かしく感じた。
毎日、毎日、つやつやの枇榔度が敷かれた、金の置台に鎮座して、喜色を浮かべた子供や、やつれた学者の物珍しそうな視線を浴びた。
丁寧に手入れされ、新たに装飾を施されたり、補修されたお陰で、剣はすっかり現役時代の姿を取り戻していた。
博物館は夜中になると真っ暗で、空気の固さがなんとも居心地が悪かった。
退屈な日々を送る中、博物館にとある盗賊が現れた。
盗賊は博物館に展示された他の遺物には目もくれず、古びた剣一振りを布に巻いて、港へ逃げ出した。
蛾の集る外灯の下で、盗賊は懐から剣を取り出した。
盗賊はその濁った刀身を見るや、
「なんだ、偽物じゃないか。」
と一言呟くと、埠頭から剣を放り投げた。
闇夜の波に浮かぶ剣は、月の光を帯びていた。
終.