海の女がいた。
いつも私の手を引いて、由比ヶ浜の海岸を歩いていた、海の女が居た。
夏になると女はどこかから現れて、毎日私と一緒に海へ遊びに出た。
透けるような白いフリルブラウスに、デニムのフレアパンツを履き、いつも目深にストローハットを被っていて、顔はよく見えなかったが、陽光に照らされた横顔の輪郭がぞっとするほど美しかったことだけは覚えている。
一緒に海の家でソフトクリームを食べて、日焼け止めを塗り合って、浅瀬で貝を拾ったり、浮き輪で波に揺れたりしていた。
暑くても曇っていても雨の日でも、必ずそうしていた。
女には何でも話をした。家族のこと。学校のこと。友人のこと。好きな人のこと。
女は私の話を何でも聞いた。けれど、女の話を聞いたことは無かった。
子供の頃はそれが自然だと思っていた。大人は無償で、全てを受け入れてくれる存在なのだと妄信していた。
私の幼い頃の記憶は全て、海の女とのものだった。
海開きが始まると、私は女に連れられて、鎌倉の坂を登った。
途中の自販機でジュースを買うのがお決まりだった。私が汗をかくと、女は決まって、ジュース飲んでね、と注意していた。
女とは友人だったのだろうか。親戚だったのだろうか。とにかく私はそうしてずっと、女と夏の間、四六時中、時間を共にしていた。
夏と言えば女で、女と会えば夏が訪れた。
ある時、私と女は少し沖に出て、海中に潜って遊んでいた。
怖いからずっと手を繋いでいてね、と約束した。
女は約束通り、私が小魚を観察している間じゅう、手を握っていてくれていた。
私は時間も忘れて、海中の景色に夢中になった。
潮と泡の流れに、その度に舞い上がる砂に、攫われそうになる足下に、手の温もりに、この時間が永遠に続くよう願った。
「──ちゃん、お別れね。」
それは突然だった。
私が久方ぶりにシュノーケルを外した瞬間、女が逆光の中に立っていた。その光景はまるで後光を背負った菩薩のようだった。
え、と口に出すよりも先に、私の身体は高い波間に飲み込まれた。
真っ暗な色をした手のような潮が全身を包んで、女と私の手を引き剥がした。
私はそこで意識を失った。
苦しかったのかどうかも覚えていない。
ただ押し寄せる潮の中で、喪失感だけを味わったような気もする。
半日経った頃、私を捜索していたライフガードの一人が、岸辺で蹲っている私を発見した。
担架で救急車内に運ばれる瞬間、顔面蒼白になっている両親の姿が垣間見えたのを覚えている。
その事故以来、女と会うことは無くなった。
何度夏が訪れても、女が私に会いに来ることはなかった。
私から女に会いに行くこともなかった。居場所が分らなかった。私は女について何も知らなかったのだ。名前も住所も職業も、何一つとして。
あれから二十年ほどが経った夏の長期休暇に、鎌倉の実家に帰省することになった。
ふと気になって、私は両親に女のことを訊ねてみた。
すると、両親は、
「何、言ってんの。あんたあの頃はいつも一人で遊んでたじゃない。」
「そうだよ。友達も居ないのに、毎日出掛けてたね。」
あっけらかんと答える様に背筋が凍った。
「何、じゃあ、あんた達、真夏の海に子供を一人で放り出してたワケ。」
「それは、だって、あんた、ちゃんとしてるから。」
「今じゃ、後悔してるけどねぇ。あの頃、まだマコトが産まれたばっかりだったし。」
そうして、私の話題はすぐに別のものへ挿げ替えられてしまった。母親の愚痴とか、父親の昔話とか、弟の進学の話とか。
私の幼い頃の思い出が、まるでその程度のことみたいに。
では、今度は女を知らないかと訊ねた。
「そんな人、見たことない。」
「お前にそんな知り合い、居たか?」
私は居てもたってもいられず、実家を飛び出した。
段葛の道を抜けて、一の鳥居をくぐり、坂を登って、由比ヶ浜の浜辺に出た。
陽射しは照っていて、ひと呼吸する度に汗をかいた。
自販機はすっかり中身が変わっていた。
私は毎年訪れていた、馴染みの海の店に向かった。
店主とも顔馴染みで、何度か話をしたことがあった。
それで、店主に女のことを訊いてみた。
「ああ、確かに。──ちゃん、いつも大人の女の人と一緒だったねぇ。あれ、お姉さんじゃなかったの?」
やっぱり。ほら見ろ。居たじゃないか。
「ですよね。ですよね。私はいつも、女と遊んでた筈です。」
「そうだねぇ。懐かしいねぇ。あの人、どこか行っちゃったの?君の……あの事故以来、見掛けなくなっちゃけど。まさか死んじゃった?」
「いや、そんなまさか。彼女について、何か知りませんか。」
「そんなこと言われても……名前は?」
「名前……、名前、知らないんです。」
「ええ?そりゃ、変な話じゃないか。」
店主は眉を顰めた。その態度にも頷ける。
だって、私は、謎の不審な女に連れ回された挙句、海難事故に遭ったと言っているようなものだ。
自分でも気が違ったのかと思った。
その後、やはり顔馴染みの店で同じように聞き込んで回ったが、皆、同じような胡乱な返答で、目ぼしい情報は無かった。
ただ、私は女と海に居た。
それだけが、私と、私以外の人間が知っている事実だった。
どうしてどこにも居ない。どうしてずっと居た。
すっかり陽が沈んだ浜辺で、成す術もなく座り込んだ。
すると、誰かが、隣に腰掛ける感覚があった。
ぎょっとして隣を窺うと、そこには、フリルのブラウスを着て、ストローハットを被った女が座っていた。
やっと会えた。ほら、やっぱり。
私は安堵して、女に手を差し延べた。
女とジュースを分け合って、花火で遊んでいる子供達を見守った。
私は女に連れられるまま、海へと入った。
シャツに冷たい海水が染み込んで、踏み出す一歩一歩が重たくなった。
女はどんどんと沖へ歩いていく。
私は二度と、握ったこの手を離さないと心に誓った。
海面の水飛沫が額を掠めた気がした。つむじから足の爪先までぐっしょりと濡れて、冷たくて、重くて、けれど、絡みつく影が不思議と心地よかった。
海底まで歩いた頃、女は砂の上にちょこんと座り込んだ。いつも履いていたのは、ビニールのオレンジ色のサンダルだったんだと気が付いた。
私も女に倣い、砂の上に腰を降ろした。
海面を仰ぐと、真っ暗闇の中に、泡と生き物の気配が息づいていて、時折、月の光が漏れてきては、それらを露わにしていた。
「──ちゃん、お別れね。」
女がぽつりと呟いた瞬間、私は息が出来なくなった。
立ち方や歩き方も忘れて、ただ藻掻いた。
そうしていく内に、私の身体は浮き上がり、暗闇の中に吸い込まれていった。
目下に見えるのは、牡蠣のような女のストローハットの広いつばだけだった。
──目を覚ますと、一番に月明かりが瞳を焼いた。
黄金色のハイビームに面喰っていると、そこが海上であることが分かった。
私は深夜の海の波間に漂っていた。
遠くに江の島の展望台が見えて、稲村ケ崎の飲食店の光がちらちらとこちらに向かって合図を送っているように見えた。
ふと、白波の中で固いものが私の頬に触れた。
ジュースの缶だった。
私はそれを拾い上げ、胸に抱えると、そっと目を閉じた。
もう一度目を開けた時、満点の星空は滲んでいた。
終.