──見られた。
 完全に、目撃された。
 見られたんだ、絶対に。
 あいつは確かに、全てを見ていた。
 じわじわとした疑念が確信に変わっていく。額と掌に汗が滲む。
 あいつは見たんだ。今、俺がしたことの全てを。そうに違いない。
 以前から俺を知っていて。俺をずっと見続けていて。
 とうとう当たりを付けて、俺が事を成す日を虎視眈々と狙って待ち構えていたのに違いない。
 何も言わず、ただじっと無言で、俺をつけ回して、そうして、俺が物陰で行うことを知って、咎めるように眺めていたのだ。
 考えるよりも前に駆け出していた。今すぐに、奴を追って、証拠を隠さなければ。
 たかが蛾、一匹だ。
 けれども俺の神経を浸食するには十分だった。
 たった一匹の蛾にさえ、この凶行を目撃されてしまったことが、俺に必要以上に焦らせた。
 周りには何も無かった筈だ。俺は細心の注意を払って、全ての神経を集中させて、事に及んでいた筈だ。
 けれども、翅の瞳は電柱の下でじっと俺の行動の一部始終を見届けた後、満足したかのように颯爽と飛び立った。
 ──追わなければ。
 見られたのだから。追わなければならない。
 夜霧に濡れた生垣を掻き分けて、ふらふら舞う蛾の行方を追った。
 見られた。覗かれた。監視されていた。
 息が上がる。あれほど自分の呼吸の音にさえ気を遣っていたのに。枝葉に触れる指の一本でさえ、掠らぬように震わせていたのに。何故、身体は音を立てるのか。
 夜露に濡れた身体が重い。蛾がひとつ舞うごとに、一歩が遅れているような気がする。
 それとは対照的に、蛾はまるで軽やかに、挑発するように次なる灯かりの元へ俺を導く。
 湿ったアスファルトの上で鈴虫と蝸牛を踏み潰す。焦って酸素を求めると口の中に蝿が飛び込んできた。
 誰かを腕で振り払った気がする。悲鳴を聞いた。全ての動く、生きるものが煩わしく感じた。
 あの茶色の目が俺を裁こうというのだ。一丁前に。たかが虫の一匹の癖に、俺と奴との裁判をしようというのだ。
 だから、追わなければ。何としても追い付かなければ。手を伸ばせば伸ばすほどに遠のいていく。
 自分の浅い呼吸と鼓動の音だけが聴覚を支配していた。だのに、蛾が鱗粉を撒き散らすほんの僅かなひらめきさえ聞こえる。
 どれほど、俺を見下しているのか。飛べるからといって、何が偉いものか。
 暗い道をただひたすらに、追う。追う。追い続ける。
 それでも蛾は止まらない。
 灯かりに向かってひたすらに飛び続けている。俺はそれを追い続けている。
 汗を拭って走るのに邪魔で、泥で汚れた手袋を外した。
 指の一本一本から抜けていく、肌から離れていくゴムの感触が気色悪かった。
 どれほど走ったか分からない。
 もうとっくに使い果たしたと思っていた体力は、しかし、存外に、蛾を追う為に、執拗に発揮された。
 もうすぐで届く。
 蛾は、恐らく、奴なのだ。
 そうだ。そうに違いない。でなければ説明がつかない。
 奴の魂は既に抜け出して、あの蛾となって、俺の行いを白日の下に晒そうというのだ。そういう魂胆なのだ。そういう腹積もりなのだ。
 そうはいくか。そうはいかせるものか。
 誰がお前の望む通りになどさせるものか。この世で罷り通るのは、俺の理屈だけなのだ。
 俺がどれほど、奴を憎み、愛し、憐れみ、求めたことか。
 笑顔を向けた後に、何度、背後から刺してやろうと思ったことか。
 その情念を見透かされたように微笑まれた後、何度、後悔したことか。
 何度、寝顔を見つめながら、首を絞めてやろうと思ったことか。その度に、お前の首に伸ばした腕を傷付けたことか。
 この日の為に、この時の為に、どれほど、己の臓物を切り裂いて地べたへ投げつけるような思いをしたことか。
 惨めで、薄っぺらく、誇らしく、少しく後ろ髪の引かれる思いで。
 出会ったことを後悔した。想ったことを後悔した。生まれたことを後悔した。
 俺は、俺自身へ向かうものをお前に向けたのだ。
 死して尚、蛾は嘲笑っているのだ。俺を苦痛の底で足掻かせる為だけに存在しているのだ。
 蛾は一本の電柱に翅を留めた。まるでここを審判の場として、俺を暴きたてるかのように。
 電柱の灯かりが俺の足跡を照らしていた。
 しかし、ああ、よし、これで手が届く。
 俺を苦しめる者はこれで最後だ。その筈だ。
 蛾にそっと指を近付けると、それは待っていたかのように爪の上へと登った。
 まるで愛おしい玩具のようだった。
 やっと。やっとこの手中に収まった。その安堵で絶頂すら迎える思いだった。全身の筋肉が弛緩する。
 この世の生き物は全て壊れる為に生まれたのだ。この蛾も、俺にまた壊される為に姿を現したのだ。でなければ、俺はこの蛾に罪を明かされてしまう。それだけは、あってはならない。だから、そうでなければならない。壊れるのが宿命なのだから。俺だって壊れて良いのだ。
 耳を澄ませば聞こえてくるじゃあないか。
 さあ殺して!殺して!殺しなさいな!殺してくれないと死んでしまう!
 怖くなんかない!殺してほしいの!あなたに!あなたに!あなたに!
 全て終わる。何もかもが。
 この蛾さえ殺せば、味わっていたものはすべからく、たちまちに絶ち消える。
 躊躇うことなく、両手で蛾を握り潰す。翅と肢が指紋の中で崩れる感触がした。
 蛾は俺の掌の中で粉々になっていた。血のような体液が皺の中に染み込んでいく。その温度だけが妙に心地良かった。
 これで安心だ。もう思い残すことは何もない。
 俺は誰にも見られていない。
 ふと道路を振り返ると、耳を劈くようなクラクションが鳴り響いていた。
 運転手と目が合った。

 

 


終.