男が触ったものはなんでも鏡になった。
それはギリシャ神話に語られるかのミダス王を彷彿とさせる力だったが、一点違うのは、男が自ら望んだものではなかったということだ。もちろんロバの耳だって持っていない。
男の手が触れたものは、自身の体以外には、全てが鏡になってしまうのである。
毛布も、蛇口も、トーストも、スマートフォンも、友人も、ペットも。幸にして、直に触らなければ鏡になることはなかったので、もっぱら手袋をして過ごした。
手袋はいつも窮屈で、湿っていて、不快で、不便だった。
男は、何故自分だけがこんな目に遭うのだろうとよくよく己を嘆いた。
しかし同時に男は鏡に囲まれて、合わせ鏡の中の無限回廊を覗くのが好きだった。
子供の頃に行った遊園地のミラーハウスを思い出したからだ。
初めてミラーハウスを見た時は、自分と同じ世界が再現されていることに、無量の感動を覚えたものだった。
そして、自分が触れても鏡にならない鏡という存在が、どうにも愛おしくてたまらなかった。
自宅の中では、友人に設置してもらった照明がちらちらと反射し、そのオーロラの欠片の美しさが常にそばにあることが誇りだった。
窓から差し込む陽光もまた、何度も反射して、男の部屋に水晶のような煌めきを運んだ。
男は何処へ行かずとも、まるでコーヒーの香りが漂う鏡の楽園で、昼も夜も、銀河の星々の虹色の光を感じていた。
友人が自宅へ訪れれば、それが何人もの姿に映って、パーティーのような騒がしさと歓喜をもたらした。
男の友人たちは、男が鏡に映る自分を気にする仕草や、テーブルや椅子、所構わずどこへでも映り込む人間の姿も、そこで男が平然と暮らしていることにも狂気と不気味さを覚えたが、男が満足そうなので何も言わなかった。
男は毎日、そうして彼なりに幸福だった。
だんだんと、自分の部屋に見知らぬ人々の姿が映り込むようになっても、男はその実態の掴めぬ像を追いかけて遊んだり、逆に追われたりして遊んだ。
男の部屋はとうとう一面、家具や道具のひとつも余さず鏡張りになって、男は無限に増殖した。
無意味に腕を上げたりすると、鏡像がのろのろと動いて、まるで自分の腕が何百本も何千本もあるように見えて、おかしくなって、笑い転げるときもあった。
一万枚に一枚は、自分とは全く違う動きをしていることもあって、だけでもそれすら、男のうちの一人であったので、男はまるで自分が不完全すら操れる、完璧な存在になったのだと思った。
そのうち、どれが本物の自分かわからなくなってしまったが、男はやっぱり、サンキャッチャーやプラネタリウムを持ってきては、鏡の宇宙が広がり続けることを喜び、慈しんだ。
男は毎日訪れる新しい住人一人ずつに、「君は誰だい?」と訊ねた。
毎日飽きる日ほど問うていると、いつしか男は自分の名前と姿を忘れてしまった。
けれど、男の鏡の中では、世界中の人が一緒に歌を歌って、踊りを踊っていた。
男はその中でただ、誰にも触れることのないよう両の手を合わせ、遊ぶ代わりに毎日、この鏡の宇宙の安寧を祈ることにした。
鏡の宇宙が増殖し続け、途方も無い銀河を生み出し、まるで真っ白に染め上げられたような、途方も無い煌めきを帯びたころ、男は忽然と姿を消してしまった。
男が住んでいた部屋は、奇妙なミラーハウスとして、地元でちょっぴり話題になった。
何しろ家主が突然、室内で消息を断ち、残されたのは壁も床も鏡張りという異様な一室だ。オカルトのような噂さえ流れたが、終ぞ、その部屋が改修されることも、他の誰かに引き渡されることもなかった。
男は何処へ行ったのか、それとも今も鏡の中に棲んでいるのか。
男の友人たちは、「男は鏡の欠片となって、今もずっと手を合わせながら、宝石のように輝き続ける自分の楽園を愛でているのだろう。」と笑い合い、鏡で出来たカップでコーヒーを飲んでいた。
終.