私の魂の行き着く場所は真ッ暗な海なのだと思う。
音もなく色もなく風もなく匂いもない。
真っ黒に塗りつぶした地平線とも見えない壁面に向かって、真っ黒な潮騒が行ったり来たりしている。何処かから覗く僅かな光だけが、波間を互いに照らし合って、黒塗りの景色に鈍い銀の粒をもたらしている。
もし涅槃とか虚空があるとしたらそういう場所だろう。
全ての情報が一つに融解し、ただ静寂のなかで擦れ合っている。死んで還るのなら、そういうのがいい。
この涯の無い海を思い描く時、私はその浜辺に腰掛けて、ただじっと動かずにいる。
現実では時間が流れているのにも拘らず、私の脳の中身だけが丸っきりに浜辺へ置き去りになる。
家でぼんやりうたた寝していても、動画を見ていても、ゲームをしていても、ふと気がつけば私は黒い浜辺にいる。
時折に思い立って、歩いて行ける距離なのだからと、本物の海を見に行くことがある。
鎌倉の騒がしい通りは、神経質な私にとっては煩わしく、死の恐怖さえ覚えさせる。
一歩歩むごとに、喧騒は耳障りで、道並みは不便で、チクチクと針を刺されるように気力を失っていく。
それでも私は海を見るために、汗を流して坂を登り、鳥居をくぐる。
そうして本物の海は、かくして私の目の前に堂々と姿を現すのだ。
柔らかな夕日に包まれた、生暖かく、肌寒い、纏わりつくような風に吹かれて、打ち上げられたプラスチックのゴミに寄せては返す波をじっと観察する。
じたばたするサーファーがいる。自撮りに勤しむ垢抜けない女子大生がいる。私と同じようにぼんやり煙草を吸って地平線を眺めている男性がいる。きっとついさっき彼女に振られたんだろう。煙草をやめればいいのに。
そうしているうちに私は、海に来たことが酷く下らないことのように思えてくる。
なんて馬鹿馬鹿しい。
あそこで自分が主役だと思って、無様に踊るように写真を撮って、薄気味悪い悦に浸っている若人と何が違うものか。
現実の海に何を期待したものか。
ありあまる生の実態がそこにはある。
生臭く、杜撰で、眩しく、暖かい。
黒い海が呼んでいる。
私が現実の海に飛び込んだとて、ただ冷えた海水に晒されて、底へ沈んでいくだけだろう。
水底から覗く陽の光のなんと美しいことだろう。そういえば、子供の頃にも、海の底から覗く光の絵を描いたことがあった。
そう思いながら苦しんで死ぬのが関の山だ。
気がつくとやはり真ッ暗な海に囚われている。
きっと目の前にどれほどの欲望が湧き出でていても、私の背後で黒い海が音もなくさざめいている。
私は濡れた浜辺を蹴って、虚しい心持ちのまま帰路につく。
音楽くらい聴いても良いだろう。
耳に心地よい音楽は、けれど、あの生暖かく生臭い海から生まれている。あの生暖かく生臭い海へと流されていく。
下劣な世界に生まれ落ちた時点で私も下劣だというのに、私は生臭い海を忌避し、黒い海に焦がれている。
空が曇り始めると、人々はてんでに海のことなど置き去りにして、家々へと帰っていく。
私だけがいつまでも背中に海風を感じて、けちな気持ちで俯いて歩いている。
鎌倉はやっぱり五月蝿くて、邪魔くさくて、真っ直ぐにも歩き続けられない。
黒い海は私を拒んでいる。
すえた肉の臭いが充満する街で、いつまで歩いても家に帰れず、けれど帰れば私の小さな旅は終わりを告げて、ただ黒い浜辺を見つめるだけの時間が始まる。
愚鈍は罪である。無知は罰である。
私は流刑にされた囚人だ。
いずれ私は、家の鍵を側溝に捨てる日が来るのだろう。
終.