【 このブログは、25年前、重症再生不良性を発病し、骨髄移植をうけた当時の家族や、周囲の人たちの、記録となります。
当時の日記があって、育児日記や忘備録も兼ねていますので長文すみません。ブログ主は、現在元気で生活しています。】
ここ最近、アニメ「進撃の巨人」を毎週楽しみにみていて、壮大なストーリーに圧倒されます。
過去と、未来のつながりだったり、色々。
主人公エレンが、過去に行って未来を変えるみたいな。
インスパイアされちゃいます~。
いま、未来から過去の自分へ会いに行きます。
あれから、数年後。
キミは、生き別れになってた、キミのパパと再会するよ。
ジャズサックス奏者だった。
音楽をやっていたのは知ってたよね。
こどものころ、テレビにも出てたのを観たから。
「アベック歌合戦」のバックオーケストラに、映っていました。
当時は、白黒テレビ。
キミはあのあと、なんとか命がつながって、退院してから、3年後。
パパが、もう長くないという知らせをきいて、病院に駆けつけたんだよ。
そして、パパが亡くなるまでの最後の半年、いっぱいお話したよ。
キミの大好きな、音楽の話をいっぱいしたよ。
それまで、音楽を封印してきたし、だれとも音楽の話はしなかったから、ホントにうれしかった。
音楽の話を聞きに、ほとんど毎日病院に通ったよ。
わたしは「すみこ」だけど「ちーこ」と呼ばれてた。
「なあ、ちーこ、パパって呼んでもらったのはじめてかもしれんわ。」
わたしは、3才くらいまで言葉をしゃべらなかった。
生まれつき、コミュ障。
「ちーこは、言葉しゃべらんうちに、ピアノの絶対音を、言えてたんだよね。」
それは、母からも聞いてた。
人と、コミュニケーションとるよりも、音楽には、特別、興味をしめしたようだった。
「パパが、ピアノで「オオカミ少年ケン」のテーマを弾いてくれたの、憶えてるよ。」
「ピアノの、左のベース音だけで。」
言葉しゃべらなくても、記憶はある。
数十年後に、この曲を聴いたわ~。
ロッテのガム、フィッツCMで、佐藤健と佐々木希が踊ってたやつ。
あれが、「オオカミ少年ケン」のテーマ。
「パパ、わたしホントは音楽をむちゃくちゃやりたかったけど、あきらめたの。」
やりたかったってなんてもんじゃない。
それ以外の道なんて考えられないくらい、執着してた。
こどものころは。
ピアノに向かうだけで、燃えたぎる思いというか、ドーパミンというのか、高揚感が半端ない。
3才か、4才で、母は、姉とわたしを連れて家を出た。
その後、色々あって、9才で、こどものいない東京の老夫婦のところに引き取られた。
ピアノを習わせてくれるという条件で。
7歳くらいに、もうそこに行く話はでてて。
決まってたみたいだったけど。
ワタシ、自分からその家に行きたいと言って、9才で、大阪から、東京へ行った。
ちょうど、万博が終わったころ。
ランドセルと、大事なぬいぐるみだけを持って。
東京の小学校に転入したら、いきなり次の日が遠足…。
ホントはコミュ障なのに、よく、まわりになじんでいったと思う。
苗字もかわり、その家の跡取りになった。
一応ピアノを習わせてくれたけど…。
練習時間が確保できないというか。
当然、老夫婦は、自分達の面倒をみてもらうために、子供をもらったんだし。
ふたりとも、70代だった。
静かに暮らしていたのに、大音量でピアノを毎日弾かれたら、たまったもんじゃないというわけで。
子供があまり好きではなかったようだし。
色々、うまくいかなかった。
それでも、ワタシ、家の手伝いもして、機嫌をうかがいつつ、ピアノの練習をした。
でも、リビングのテレビのすぐ横のピアノだったから、ホント、練習できなくて、ピアノ教室も2年後に、やめてしまう。
そして、色々あって、10年後、大阪に戻ってくる…。
パパの話に戻ろう。
パパが話すのは、音楽の話ばかり。
ワタシ嬉しくて、知らない音楽の世界の話を、目をキラキラさせて聞いてた。
「ワタシね、小さいころから、ほんとにほんとに、ピアノやりたかったのよ~。」
そして、
「私のためになんかピアノ曲をかいて。お願い…。」
と。
もう、命の期限がきている。
なにかを、残してほしくて。
ふうふう、息とぎれてしまうパパに向かって、五線紙を渡した。
もう、とてもサックスは吹けないパパ・・・。
手元に楽器がなくても、曲って書けるはず。
ワタシもそうだから。
でも、ジャズマンはあくまでアドリブ演奏が命なので、作曲はできないと渋るパパ。
作曲なんか、やろうと思えばできるだろうけど。
ちまちま、音符を書くの、苦になるんだろうな。
頭には描いていても。
わたしもそう。
しぶしぶ
「じゃあ、導入のコードを書くから、その続きは自分で、好きにアドリブ演奏したらいいよ。」
と。
キミ、死にかけたときに、思ったよね。
自分てなんのために生まれたのかな~とか。
誰からも愛されなかったよな~とか。
自分が大好きな音楽は、周りのひとを幸せにしないと。
一切、封印したんだ~。
聴くのも、弾くのも。
物心ついたころには、ピアノの絶対音なら言えた。
幼稚園のころには、耳コピで適当に伴奏つけて、童謡なんかが弾けた。
自分では、誰もがはやり歌を歌えるのと一緒の感覚。
特別とも思っていなくて、みんなそうだろうと、思ってたけど。
でも、パパにまた会って、なんか、足りない自分に出会った気がした。
自分というのが、わかった気がした。
やっと書いてくれたパパの楽譜は、わたしにとってちょっと難解なので、手をつけていなかった。
あのあと、石川に引っ越したり、子育て、仕事に追われて…。
やっと、今ゆっくり、向き合える。
その楽譜がこれです。
この4小節。
楽譜では、ルート音がB♭。
コードには(A)とあって。
見方がよくわからない。
これ、コードとルート音が合ってるのかな?
パパが間違えるとは思えないのだけど。
もう、病床で長くなかったからかな。
だれか、ジャズのわかる人、コメントいただけたらと思います。
パパが持ってた、自身が載ってる「スイングジャーナル」
昭和35年、6月発行
パパの名前は、加藤修といいます。
そして、クラリネットの批評の欄に…。
クラリネットに関しても、
「関西では、彼の右にでるものはない」
と批評していただいている。
この辛口の批評家久保田高司さんってかた、ウチのパパのことは、マイナスなことは一切書いておらず、絶賛してもらってます。
他のひとの批評には、ひとこと残念なことが書いてある。
古谷充さんは、レコードも出した有名な方。
うちのパパは、職人さん気質で、そういうのは嫌いで。
話はあったけど、断わり続けたらしい。
パパも、人と話すのあまり得意でないし。
心斎橋の三木楽器でYAMAHAの講師もしたけど、続かなかったらしい。
いつも、頭の中で、音楽のこと考えてるんだって。
結婚には向かないはずだな。
小さい頃に離れてから、一切接点がなかった、ウチら親子だけども
そんなブランク全然なかった。
とにかく音楽に対する愛がハンパないよ、というのが、親子共通。
亡くなってから、遺品をほとんど、ワタシが持って帰ったけど。
楽譜、レコード。膨大な数。
ジャズ音楽理論とか、難しい本も。
そして、楽器も色々。
アルトサックス数本、テナー、ソプラノ、ソプラニーノ、フルート、クラリネット、電子ピアノ、そして、驚いたのは…。
バイオリン。
パパが病床で語ってくれた。
実はクラシックも聴くんだと。
好きなのは、バッハの「G線上のアリア」
なんと、バイオリンを練習していたのだ…。
「G線上のアリア」を弾くために…。
もう、ボロボロなんだな…。
G線上のアリアの楽譜と一緒に…。
パパが亡くなって、このバイオリンを眺めては、泣いた、泣いた…。
追悼ライブを仲間のかたたちが開いてくださった。
関西中のジャズマンが、集まった。
古谷充さんもいた。
でも、知らない人たちばかり。
「父がお世話になりました。」
ひとりひとり、ご挨拶。
でも、古谷さんは、有名なので知っていた。
(たまたま、昔レコード店でバイトをしてたことがあったので、レコードがあったので知ってた。)
「いや~、わたしなんて、ハッタリで生きてきましたからね~(笑)」
と謙遜していらした。
父が、みなさんから尊敬されてるのを肌で感じた。
もっともっと、いっぱい、伝えたいことがある。
スイングジャーナル、他にもある。
掲載されている。
絶賛されている…。
未来には、ブログっていって、日記みたいなのを、だれでも簡単に公開したりするサービスができて。
コミュ障のキミでも、自分のことを語ったりできる。
文字なら、すらすら饒舌なキミ。
Youtubeとか、動画投稿サイトができて、だれでも自分の演奏とかみてもらえたりできる時代になる。
そして、キミは、なんと、またピアノをはじめる。
カチカチの指でも、なんとかイチから練習して。
腱鞘炎になりながら。
自称で、「ピアニスト」を名乗り、そのYoutubeでみんなにみてもらってる。
一応念願の、「ピアニスト」というわけだ。
パパがみてたら、笑われるけど。
もしくは、怒られるかも。
でも、これからも、折にふれて、パパのことも伝えていければ、いいのにな。
音楽の大先輩の、音楽家、加藤修のことを。
だから…。
なんとかしがみついてでも、生きて、色々やらないとならないこと、いっぱいいっぱい、あるんだよ。
以前にアップしました関連動画です。
よかったら、みてください。
↓
次回「 65 無菌室退室の日がきまる 」来週火曜日更新予定です。
いつもイイねありがとうございます😃