【 このブログは、25年前、重症再生不良性を発病し、骨髄移植をうけた当時の家族や、周囲の人たちの、記録となります。
当時の日記があって、育児日記や忘備録も兼ねていますので長文すみません。ブログ主は、現在元気で生活しています。】
こんな時に、面会の人が…。
ガラス越しだから、一応面会OKだけど…。
「面会のかた、きてますけど・・・。」
え?誰なんだろう。こんな時に…。
なんと、数年前に在籍した会社の、同僚ふたりが数年ぶりに。
O谷さんと、M崎さん。
遠いところ、わざわざ、せっかくきてくれたのだ。
おそらく、もう回復期かと思ったのかな。
「あ…。通してもらって、い、いいですよ。」
ウチおとうさんでさえ、この無菌室きてから、わたしに面会拒否されてたけど。
M崎さんは千羽鶴メンバーで、一度きてくれた。
O谷さんはすでに退職してたので、わたしの入院のことをきいて、M崎さんときてくれた。
しかも、一緒に仕事したのは、1年も満たなかったか。
そもそも、わたしがこの会社に在籍したのも2年ほど。
実家の家業の手伝いをすることになり、やむなく退職したけど。
この会社、ほぼ女性ばかりで、みんな親子、姉妹みたいに仲良くて。
毎日、みんな楽しんで仕事をしていた。
仕事は毎月、締切に追われて、ハードだったけども。
クラブ活動みたいに、みんなで協力して仕上げると、達成感があって。
ラグビーみたいに、みんなで力合わせて、トライを決めるみたいな達成感と、チームの一体感。
そんな気持ちを共有できた仲間たちだった。
わたしは、チーフを務めていたのだけども、辞めたあとも、みんな心配してくれたのだった。
部活でいうところの、キャプテンかな。
だから、学生でもないのに、千羽鶴をみんなで折ってくれたわけ。
「あ、ありがとね~。千羽鶴もありがとね〜。」
なんとか、笑顔をつくって窓に向かって、手をふる。
もうこの時点で、移植後30日を越えてた。無菌室には40日以上いることができないらしい。
移植が順調だとしたら、もう回復期なはずだから。
色々、覚悟した。
もうダメかなー。
と思いながら、もういよいよなら、家族よばれるだろうし。
今のところ誰も来ないし。
まだ、大丈夫なんかな。
とか、思っていた。
もし、家族が面会にきたら、もうアウトなんだろなと思った。
先生が家族を呼んだということだ。
よくドラマでやってるやつ。
わたしは、絶対来ないでっていってたから。
とりあえず、思い残すことはないようにしておいたつもりだし。
シンには、こうやって、ママはがんばっんだだよ、と、日記を残してあるから、いずれ納得してくれるかと。
でも、ある日、まーさんがシンを連れてきた。
わたしは、その時のこと、よく憶えてなくて、最近、まーさんがそういってた。
すわって、苦しそうにしていたそうで、目もくれず、帰ってと合図したということだった。
そもそも、病棟には子供ははいれない規則。
シンには、苦しんでるママをみせたくないって言ってたはずだったのにな。
そのために、一時退院して、いっぱい思い出を、作っとこうってしたのにな。
それで、冷たい態度だったかと思う。
極限だったのには、ちがいないけど。
この時、家族のことを考える余裕なんて全くない。
もうあの世のドアをたたいていたのだから。
せっかくの気持ち、申し訳なかったです。
次回、「63 当時のドラマ、最終回まで観たい」