【 このブログは、25年前、重症再生不良性を発病し、骨髄移植をうけた当時の家族や、周囲の人たちの、記録となります。
当時の日記があって、育児日記や忘備録も兼ねていますので長文すみません。ブログ主は、現在元気で生活しています。】
この最後の外泊期間は、色々忙しい。
無菌室に持って入る物、の買いだしやら。
10月17日の回想日記より
10月14日のつづき
お昼前にひとりで、車で買い物に行った。
サンディで缶ジュース、おうどん、薬局で(お腹壊してるシンのため)ホウ酸と綿花とか、おむつ用洗剤とか。
おもちゃ屋さんで、ブッブー2つ。
しんちゃんと一緒に行こーと言ってたけど、おなかピッピ―で無理なので、ひとりで行ってくるというと、泣いているー。
ごめんねー。振り切って出ていく。
「ブッブー買ってきてあげるからね。」
マーさんにあとで聞くと、
「ママにバイバイいうんだった。」と泣いていたらしい。ごめんね。しんちゃんえらいね。
帰ってきたら寝ていた。
おうどん、作っておく。
いっしょにねるー。
おとうさん2時半にくる。
今日は病院で面談。
おとうさんとわたし、えみちゃんと。
3時から。
そーっと抜けていく。
しんちゃん、起きて哀しい顔をしている。
そのあと、まーさんと又寝る。
(結局4時ごろまで寝たらしい)
えみちゃんは、あーちゃんが40度の高熱をだしていて、大変だった。
夕べはねていなかったので、大変ー。わざわざありがとう。
本当に申し訳ない。わたしのためにー。
面談は、3時半ごろから、N浦先生、M井先生、I田先生、O島先生、Y田先生、5人そろってお話。
承諾書の件。
もうどう転んでも、わたしは気が変わることはないときっぱり言った
なんか、いつも先生方に集まってもらって気の毒な気がする。
でも、ほかの人なら、もっと家族がでてくるのだろうけど、私の場合は全て私が決めてきたことだし、家族を納得させているわけだしー。
この間の、O島先生に、いきなり、「BMTやめます}と言ったことで、ちょっと混乱を招いたようだ。
あの時は、頭の中で、「しんちゃんと離れずにすむんだわー」と目先のことにとらわれてしまって。
その日のうちに決着がついて、ほっとした反面、一度やめれると思った、この気持ちをどうしてくれるんだーみたいな、つらいものがあった。
でも、あの時、O島先生から色々説明を受けてやっぱり(移植)受けようと思った。
説得されたというか、よーくわかった。
何故する方向がベターかということー。
免疫抑制剤に反応しているということは、裏を返せば、自己免疫疾患である可能性は高いということ。
BMTを中止したとして、免疫抑制剤からは逃れられない。
しかも、効き目がなくなるかもしれないし、副作用で2次的に他の疾患をおこす恐れ。
完治する見込みは、ほとんどない。
一度、自分を攻撃する抗体ができてしまった以上、骨髄そのものを入れ替えないと、完治は難しい。
初心にかえると、わたしは、とにかく何の憂いもなく、元気な体になりたいということ。
ずーっと、ビクビク病気とつきあうのは嫌だ。
しんちゃんと、元の様に、日常生活がしたい。
とにかく、もやもやしていたことが、すっきりふっきれて良かったー。
このときの、ずらりと並んだ先生方が、遠くみえた。
ひとりひとり、いつも冗談いったり、楽しいんだけど(主治医をのぞいて)
笑顔もなく、真剣な面持ちで、説明されてるのをみて、すごく距離を感じた。
そして、成功確率は、
「70パーセントです」
と告げられた。
「え?80パーセントではないんですか?」
「いえ、70パーセントです。なにが起きるかわかりませんから。」
と。真剣な顔で。
5人に4人は大丈夫なのと。
3人にひとりはダメなのと。
差は、大きい。
でも、いいや。
色々勉強したし。
医学生に混ざって、論文読んだもん。
白血病でなかったことは、たぶん、確率は高いはず。
コピーさせてもらった資料。
白血病の移植後、3ヶ月ごとのグラフ、下降線をたどる。
再発とか、いろいろ。
これを見ると、白血病はいかにシビアな病気か…。
これは、重症再生不良性貧血のグラフ。
かなり、確率がいい。下降線はたどらない。悪性でないのが、幸い。
わたしは、なにがあっても、文句いわないと決めていた。
全部、納得して決めてきたから。
この日も、キッパリと
「よろしくお願いします。」と、承諾した。
次回「いよいよ最後の日 美容院に」
金曜日更新予定です