【 このブログは、25年前、再生不良性貧血を発病し、骨髄移植をうけた当時の家族や、周囲の人たちの、記録となります。

当時の日記があって、忘備録も兼ねていますので長文すみません。ブログ主は、現在元気で生活しています。】

 

【個人名は仮名となっております。】

 

【これまでの経緯】

6月28日からS市民病院

8月10日から、H大病院 東11F病棟

9月28日から、H大病院 東4F 移植病棟

10月17日から、移植のための前処置開始(放射線、抗がん剤、抗胸腺グロブリン等。)

10月27日 Xデー (骨髄移植の日)



 



 

東4階の、移植専門病棟へは、9月の下旬に入院。

 

10月13日に、前処置のため個室に入るのだけど、

 

それまでは大部屋ですごす。

 

やがて、お姉さんのために、移植するという、ドナーの山野えりちゃんが入院してきた。

 

東京の、地方テレビ局に就職し、頑張っているという。

 

大手のテレビ局ではないので、取材の時は、ディレクターさんも、カメラ、音声さんもなく、ひとりでハンディカメラ持って、取材するって言ってた。

 

移植までに、色んな検査、貯血、そのたびに仕事休んで、大阪にこなくてはならない。

 会社の理解を得るのも、大変かも。

 

「大変やねえ…。」

 

小柄で華奢で。

でも、とても明るい元気な女の子だった。

といっても、当時30歳くらいなのかな。

 

お姉さんの、ゆり子さんは、独身。

私と同い年だった。

 

白血病の闘病後の移植だから、リスクは高い。

 

私とはちがう、第3内科だった。

 

おなじ病棟なのに、食べていいものとか、無菌レベルが、第2内科とは異なる。

 

(第2内科は、食べていいものが厳しかった。)

 

この、東4階の移植専門病棟は、第二内科、第三内科、小児科の患者さんがはいっていて、同じ病気でも、それぞれの方針がちがっていた。

 

 

大部屋で、えりちゃんと、仲良くなって

 

「これ、姉からです~。」

 

と、ルルドのキャンディをもらった。

 

ルルドとはフランスにある、病気が治る水が湧く、奇跡の泉とされている泉のこと。

 

その水で作ったキャンディかな?

 

お姉さんのゆり子さんには、お会いしたことがないけど、お手紙を書いた。

 

下書きなのか、渡しそびれたのか、その手紙が残ってる。

 

 

 

「山野ゆり子さま。

初めまして。まだお話したことがありませんが、妹さんと同室の、小島すみ子といいます。

 

いよいよですね。本当に精神的に大変だろうと思います。

わたしも、ここに来るまでに、ずい分悩み、苦しみましたので、ゆり子さんのお気持ち、本当によくわかります。

結局は、自分との闘いですものね。

でも、あんなに元気な妹さんが、ドナーですから、これをのりこえれば、きっと以前よりも元気な体になるのではと思いますよ。

 

(えり子さんは、本当に明るく元気なかたで、こられてから、病室が一気に明るくなりましたよ。)

 

わたしは10月27日にBMT予定です。

ゆり子さんとわたしは、同い年だそうですね。

これも何かのご縁でしょう。頑張って、お互い無菌解除になって、お話しできる日を楽しみにしています!

 

ルルドのキャンディ、ありがとう!

 

小島すみ子  」

 

山野姉妹が移植の日をむかえた。

 

元気な、えりちゃんが、とてもグロッキーになって、お部屋に戻ってきた。

 

きつそうだった。

 

小柄で、華奢だったからか、骨髄液の採取量も少なかったと聞いた。

 

移植って、ドナーさんも大変なんだ…。

 

そのあと、わたしの番。

 

でも、ゆり子さんよりも、わたしのほうが先に退院した。

 

おかあさんも、たびたびいらしてたので、よくお話をさせてもらった。

おかあさんは、小柄で、えりちゃんは、おかあさんに似てる。

 

ゆり子さんは、大柄なタイプ。姉妹、あまり似ていなかった。

 

わたしは退院してから、毎週、外来にきてたので、必ず、東4階のゆり子さんと、東11階の友人たちを見舞った。

 

(東11Fでは、悪性リンパ腫のノブコさん、慢性骨髄性白血病のえっちゃんという同年代の友人たちがいた。)

また、あらためて紹介します。

 

東4階の無菌病棟には、いろんなお部屋がある。

 

無菌室、準無菌室、個室、大部屋。

 

そして、あとひとつ、ナースステーションの前に、「大きな個室」というのがある。

 

そこは、誰もはいってるのをみたことがない。

 

確か、そこは、人工心肺装置など大きな機械がはいるようになっていて。


つまり、なにかあったときに、そこに入ると聞いた。


うわさでは、

「あの部屋に一度入ったら、もう、生きて帰れない…。」

と。

 

外来のたび、何度か、ゆり子さんを見舞って、他愛もない話をしたり。

 

ある日、一時帰宅が許されるまで回復した。

 

もう、退院間近かな。

 

しかし、その一時帰宅から、そんなに間がないころ。

 

いつもの東4階の病棟に行ったら、ゆり子さん、その「大きな個室」に移動になっていた。

 

まさか…。

 

病棟の入り口の大きなステンレスの自動ドアがあくと、廊下の奥が、そのお部屋。

たまたま、そのお部屋のドアが大きく開いた時に、こっちをみて目が合った気がした。


その目がとてもうつろで、顔もむくんでたように思う。

 

わたしは、お会いすることなく病棟をあとにした。

 

もう、かける言葉がない…。

 

気になりながら、ある日のこと。

 

偶然に、1Fの通路で、山野さんのおかあさんに出くわした。

ゆり子さんの弟さんと一緒だった。

 

「あら、小島さんお元気で。あのね、病院から呼び出されたの。

大丈夫かしら…。」

 

「え?あ、だ、だいじょうぶですよ。きっと…。」

消え入るような声で、そそくさと、別れた。

 

そして、外来のまた別の日、東4階に行ってみた。

玄関に、入院患者それぞれの靴箱がある。

 

ゆり子さんのスリッパはなかった。

 

婦長さんにお会いした。

 

「あの、ゆり子さん…。」

 

婦長さんは、無言で困ったようなほほえみを浮かべていらした。

 

「・・・・・・。」

 

あの日、ゆり子さんと一瞬目が合った、うつろな表情が今でも消えなくて。

 

あんなに、つらい治療をしたのに。

あのお部屋に移ったときは、どんなに絶望したかと。

 

今でも、ずっと思い出されます。

 

こういうこともあってか、

池江さんが、奇跡の復活をとげられたことで、なぜか、自分も救われます。

 

あの1995年当時、10月から、12月ごろ。

 

テレビのドラマがあって、鈴木保奈美さんが主人公で、病名はわからないけど、不治の病で、なくなる。

 

そのドラマ、おそらくここの病棟みんなが観ていたといいます。

 

ドラマの名前は「恋人よ」

 

主題歌は、セリーヌディオンの

「TO LOVE YOU MORE」

 

葉加瀬太郎さんとのコラボで、人気になった曲でした。

 

つたないピアノですが、オカン耳コピで弾いてみました。

 

よければ聴いてみてください。


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次回は、「 11  骨髄移植直後 エピソード 」 来週火曜日の夜、更新予定です。

 

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