普通に暮らしていて、突然、入院しなくちゃならなくなったら、人ってまず、なにをするのか…。
わたしの場合、まず、こども。
母子手帳にあった、児童相談所に早速電話。
困った時は預かりますって。
のちのち、児童相談所ってどういうところか、わかったけど、
この時は、困った時に預かってもらうありがたい場所と思った。
電話すると、ケースワーカーのひとがいて、ちゃんと手配してくださった。
A田さん。
「明日、連れてきてもらっていいですよ。なにも持たなくていいですから。」
母に、翌日連れて行ってもらった。
そもそも、病気が発覚したのは、シンが気管支炎でかかった小児科で。
どうも数か月前から、やたら青あざができるし、しんどいし。
風邪ひいたら、ずっと熱がさがらないし。
それでも、こども連れて医者にいくということを思い浮かべられなかった。
それで、ママ友に、
「S木小児クリニックなら、女の先生で、おかあさんもなにか困ってませんか?ってきいてくださるよ。」
ときいて、初めてそのSクリニックを受診。
「はじめは、ちょっと、ここでは診れないので、ちゃんと内科にいってください」といわれた。
「子ども連れて、なかなか、病院いけないんです。なんとか検査だけでもお願いできませんか?」
すると、検査キットが小児用で、取り寄せないとということで、次の日に。
そのさらに翌日、あわてたS木先生からお電話が。
「ふつうは、こうやってお電話することはしないのですが、緊急なので、早く、入院の準備をしてください!」
「え?でも、色々段取りがあって、片付けたり、こどものこともあるし。」
「いや、ダメです!一刻も猶予ありません!
うちの主人が、S田市民病院で内科医してますので、なんとかそこで空きベッド確保してもらっていますから!」
それで、とにかくすぐに児童相談所に電話してみた。
母は、ちょうど海外旅行の予定があったし、姉も、預かる余裕がないと思ったし。
今まで、一度も誰かに預けたことがなかったし。
この時、
ヘモグロビン、7.7(通常は12くらい)
血小板 5000 (通常は 20~30万くらい)
好中球は、200 (通常は、3000くらい)
血小板、白血球は壊滅的。
一刻の猶予もなかった。
すぐに、個室に入った。
きてくれた家族は、みんなマスク着用。
あれ~?どうなってるのん?
家族が呼ばれて、先生からお話があったらしい。
「 ね~、なんだかわからないけど、色々ごめんね。 」
「しんちゃん、どうしてるやろね。なんか、いないの、変なかんじ。」
とかなんか、ダンナに言うと、
振り向いた顔が、目が真っ赤だった。
泣いたのをみたことがなかったので、びっくりした。
なにがなんだか~。
シンは、児童相談所に預かってもらえて、とりあえず安心とおもった。
インターネットとかうちにはない時代。
入院前に「家庭の医学」で調べておいた。
多分、白血病か、再生不良性貧血かな。
そのどっちか。
主治医のS木先生は、とても、あわててる雰囲気。
「今日、明日にでも輸血しないと、危ない。
いつ、脳出血おこすかわからない。」
「強い咳とか、力んだりとか、気を付けてくださいね。」
入院したのが、水曜日で、確か輸血用の血小板が届いたのが、金曜日だったように、記憶している。
血小板は、保存がきかず病院に備蓄はないらしい。
でも、息切れはするけど、家事もしなくていいし、シンを公園で遊ばせることもない。
本人は、むちゃくちゃ元気。
とりあえず、輸血してもらって、危険は脱したようだった。
白血球は増やす薬が反応よく、増えてきた。
赤血球は、普通の半分くらい。現状維持で。とりあえず、息切れするけど、命の心配はない。
振り返ると、ゾッとする。
超ラッキーだったと思う。
S木小児クリニックにかかったのが。
S市民病院に、H大から血液内科の先生が、週に1度こられる。
でも、内科医のS木先生は、ほんとにずっと親身になってくださった。
週4回の、外来の激務のなか、毎日病棟に足を運んでくださった。
専門外なのに、質問にすべて答えてくださって。
すごく安心できた。
【 このブログは、25年前、再生不良性貧血を発病し、骨髄移植をうけた当時の家族や、周囲の人たちの、記録となります。
当時の日記があって、忘備録も兼ねていますので長文すみません。ブログ主は、現在元気で生活しています。】
次回、「 8 児童相談所 その1 」
来週、火曜日くらいになります。