ご機嫌よう、伊藤です。
これはかわいいかわいいラモスジンフィズ。
とってもファンシーでかわいらしいこちらのカクテル、ただかわいいだけじゃありませんよ?
そう、
ラモスジンフィズとは初めて人名を冠したカクテルであり、カクテルドリームなのです。
まずは、ラモスさんのお話から。
ラモス・ヘンリー・チャールズ
Ramos, Henry Chales(1856-1928)
はドイツ系(プロイセン)移民の息子。
1870年代までには家族はニューオリンズに移り住んでいた。
(ニューオリンズといえばカクテルの聖地。
サゼラックにグラスホッパー…枚挙に暇がない。)
そんなラモスが酒場に関わる仕事を始めたのは18歳の時。
でラモスはバーテンダーとして修行を重ねたのち、24歳にて独立。
屋号は「Capital saloon」。
地元紙曰く
『彼の作るミックスドリンクが素晴らしいことはみんな知っている。』
ラモスの店はすぐに人気になり1887年に移転
屋号は「Imperial Cabinet Saloon」。
人気になった理由はもちろんラモスジンフィズ。
色々な新聞で褒めちぎられる。
(ラモスジンフィズは希望と幸福をもたらす
ラモスが死んだらその秘密も一緒に死んじゃうかも…みたいなことが書いてある。
こんな感じの記事が無数にある。)
ラモスの酒場はいつも人気であったがマルティグラ(謝肉祭)の日は狂乱状態。
1日に3000杯のラモスジンフィズを売り上げた。
バーテンダーは最盛期で、15人。
そして1人に対して1人か2人の、シェイクだけをするshaker boyが付く。
その様を見た記者は
『彼は国内最大の養鶏場を経営している』
と評した。
そんな人気にも関わらず、ラモスの酒場は女性たちだけでも入れるほど紳士的で20時には営業が終わるような店であった。
さて。その頃にはすっかり地元の名士となったラモス。
不動産事業や色々な事業に投資し、フリーメーソンにも所属する事業家としても活躍する。
そして来たる禁酒法、1920年。
(禁酒法という表現は正確ではないのだが通りが良いのでここでは割愛。)
ラモスはどうしたか?
なんと
今まで秘密にしていたレシピを大公開!
ググると何でもでてくる、今では想像できないかもしれないが、今でいうと人気のラーメン屋さんがレシピを公開してしまうくらいヤバい。
もうジンフィズ作りません宣言を新聞出したラモスは
いち早く酒場を閉め、ペンキ屋に転向。
ブランド名は
「Jin Phiz(ジン・フィズ)」。
そうして禁酒法の最中1928年、72歳でラモスは永い眠りにつくのであった。
後年息子は「ラモスジンフィズ」の権利をホテルに売却する。
きっかけとなり、ラモスジンフィズは大流行。
その名声を確かにするのだった。
究極のカクテルドリーム
それが
「ラモスジンフィズ」
一つのカクテルで最も儲けたのはきっとラモス。
優れたバーマンであると共に、先見の明に優れたビジネスマン的な要素を兼ね備える。
自分のバックバーを担保にして店を潰しちゃうような波瀾万丈なニューヨーク版両津勘吉ことジェリートーマスとは対象的。そこが面白い。
長くなりすぎました、実際につくるのは後半にて!
多分ガバガバだし端折ってる所も適宜あるので、識者の方いましたら是非ご指摘ください🙇♂️