人はいずれか死ぬ。

死は平等である。

 

しかし、死に方は様々。

 

突然、突っ込んできた車にはねられて死ぬこともある。

 

癌になっても、静かに家族に看取られて死ぬ場合もあれば、

痛みに苦しみながら一人、孤独に死ぬ場合もある。

 

人は死を意識したときに、想像力が歪むことはよくある。

死を怖れ、じぶんの死にざまを考えてばかりになったりするのは

よくあること。

 

僕は何百という死に至る病を宣告し、そのあとの生きざま、死にざまと向き合ってきた。

 

癌を宣告されたあとの心の過程で有名になった「死ぬ瞬間」(キュブラー・ロス)に書いてあるような、

「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」

それは、一つのパターンに過ぎない。

 

けっこう、不治の病だと宣告したらそのまま受容してしまう患者さんは多い。日本人は実はとても信心深いのかも知れない。

 

むしろ、全力を尽くして病と戦う(延命する)か、否か。

この選択で人は分かれるものだと知っている。

不正解な選択はない。

選んだら、それが正解だと思うしかない。

途中で選択変更ってこともよくあるのです。

それと、忘れておくってのもよくあるパターン。

 

予後何年ってのは全くあてにならない。

 

 

人は弱い者である。

前がん状態だけで、想像力で自分の死に思い馳せる人もいる。

 

慢性の炎症: 

慢性肝炎、慢性萎縮性胃炎、潰瘍性大腸炎など前がん状態として有名である。他にもたくさんの前がん状態はあって、書ききれない。

糖尿病ですら「前がん状態」と言っても過言じゃない。

例えば最近は、糖尿病などでなりやすい脂肪肝の方がウイルス性肝炎よりも肝がんの原因で多くなった

(正しくは非アルコール性脂肪性肝炎 NASH)。

こういった病気はコントロールすれば、かなり癌化する率は減る。

 

それに、食事、運動、睡眠の仕方だけで倍近い差は出てくる。

 

 

 

死に急ぐな

急がなくとも、死は必ずやってくる。

それがいつなのかは、誰にもわからない。

 

死が近いと思うなら、今、したいことを、

やるべきことを、急いでゆっくり、しなさい。

 

死は遠い先と思うなら、それでも明日に死が来ることも考えておけ。

「死」は誰にも必ずやってくる。忘れるな。「死」を忘れるな。

 

今をどう生きるか、

今、先ず何を行うべきかを考える。

「死」を意識することは、それを映しだす鏡のようなものでもある。

 

 

 

小学校の入学式のときに、自分の死を意識した。そして怯えた。

2000年で44歳。それまで生きているか? 変な小学一年生ですね。

あっという間に60年近く経過したが、僕はまだ生きている。

馬鹿なことで死ぬ寸前にまで行ったことがあるが、今も生きている。

 

もう一度書く。

「死」を意識して生きることは大切だ。

それは立派に生きようと、

自分の「いのちを生きる」ことへの手がかりでもあるのだから。

 

お天道様は外から自分を見てくれている。

死は内から自分を見ているのだ。

 

 

今、自分自身に願うのは、大切な人と感謝しあって死ねること。

そういう人の死に顔は、とても美しい。

それを僕は知っている。

 

 

 

 

                              死を怖れる人。死から逃げる人へのメッセージ