子供の頃。
日曜日の朝といえば、アニメや戦隊ものをよく観ていました。
戦隊ものを観ながら、いつも思っていたこと。
「ヒーローたちが変身していて名乗りをあげている間、なんで悪役は攻撃してこないんだろう?」
悪役が律儀に待ってくれていることが不思議だったんです。
「悪役」なのに卑怯じゃない。
そんな矛盾について、モヤモヤしていたのはきっとわたしだけではないはず。
もちろんヒーローが変身している間に悪役にやられてしまったら、そこで終わってしまうので作品として成り立たないのはわかります。
ですがそんなことよりも、子供向けの番組でそんな展開は望まれませんし、ヒーロー達も卑怯な手を使わず正々堂々戦って勝つことが作品として大前提だったように思います。
「正々堂々が正義」
これ、子供の頃から刷り込まれている価値観のように思います。
少なくとも今の日本においては。
勝ち負けを競う場合も、卑怯な手を使って勝利をおさめるよりも、正々堂々戦って負ける方が賞賛される。
表向きには。
この「正々堂々」って、占星術でいえば「太陽」ぽいなと思うのです。
かっこよくありたい、卑怯な手は使いたくない、さらにいえば自分の手は汚したくない。
ですが、子供の頃から植え付けられた「正々堂々が正義」という価値観って、ある意味守られた世界だから通用するというか、世間の荒波を知らないからこそ、そう思えるようなところがあるような。
もちろん、生育環境その他諸々によっては「正々堂々」だけでは通用しないということを早い段階からわかっている場合もあるかと思います。
ただ多くの人は社会人になったあと、占星術的には「太陽の年齢域」あたりで、そういうことを実感するようになるんじゃないかと。
綺麗事だけでは世の中渡っていけない。
自分が手を汚さなくても、誰かがそこを引き受けている。
そういうことをだんだんと理解していく。
そして太陽の年齢域を通じて「自分の望む生き方」がだんだんと見えてくると、どんな手を使っても手に入れたいものが明確になってくるように思います。
そして、それを手に入れようと足掻くのが「火星の年齢域」
正々堂々だけでは本当に欲しいものが手に入らないことを実感することで、プライドなんかには構っていられなくなり、例え人から非難されようと手段を選んではいられなくかるかもしれません。
なりふりなんかに構っていられなくなるし、欲求を通す為ならば、自ら傷を負ったり泥を被ることもありになっていく。
これが「火星」を発揮するということなんじゃないかと。
ただ、「正々堂々」が表向きは尊ばれる世界にだからこそ、火星は凶星として扱われるともいえます。
太陽が正統派ヒーローなら、火星は汚れ。
そんな風にも見えてきます。
太陽が名君と呼ばれる王ならば、その影には王のために手を汚す火星が絶対いるはず。
綺麗事だけではうまくいかない。
汚れ役は必要ですし、汚れあってこそ輝くヒーローともいえるかもしれません。
自分の中の「太陽」を輝かせるために「火星」を使う。
火星を使うことは、時に人を蹴落とすことになるなど、結果的に誰かを傷つける場合もありますし、その行為は時に非難を受ける可能性もあります。
でも、実際火星を使ってみることで、自分の太陽的にどこまでならありなのかを探っていくことが火星の年齢域には必要なんじゃないかと考えます。
太陽の「正々堂々とあるべき」に囚われすぎると、自分の中の火星的な部分から目を背けることにもなりかねます。
汚れ役の火星を使いつつ、やりすぎないよう上手く舵を取るのが太陽と考えていいかもしれません。