学生時代。
いろんな漫画を読む中、好んで作品を追っかけていた作者さんが数名います。
一旦は離れていたものの、気軽にウェブ漫画として読めるようになったご時世もあり、過去に読んだ作品を再読したり、最近の作品を読んでみたりすることも多いです。
漫画に限らず、フィクション作品全てにおいてなのですが、完全な悪人が出てこないものを好むというか、例えば主人公目線で見た時に嫌な人がいたとしても、どこかでフォローがあったりするような展開のものが好きかもしれません。
憂鬱展開が長々と続くものも苦手です。
あとは、動物がかわいそうな目に遭うようなシーン。
こういうのは昔の漫画では多く、登場するキャラクターの「強さ」や「残酷さ」を表現するためにあえて描かれるケースもありますが、むしろそっちに気を取られ本筋に集中できなくなってしまいます。
この私が苦手とする作品の傾向。
ウェブ漫画で他の読者とコメントを共有できるようになった今、同じような感覚を持っている人が思った以上に多いなという印象を受けますし、それは時代の流れによるものとも思います。
最近よく読んでいる、とある漫画家さんのインタビュー記事にて。
直近で描いていた作品について、以下のようなことを意識して描いていたというお話がありました。
・読者にとってストレスフルな展開が続かないように。
・悪い人が出てこない、出てきても早い段階でなんらかの救いがある。
・最後は必ずハッピーエンドに。
ニュアンス的にはこんなかんじだったような。
確かに読んでいて、すごく「楽」な感覚がありましたし、その上でもちろんおもしろさも両立させている。
描き手の思いも作品にしっかり表現されていてすごいなぁと思います。
インタビューによると、「今の読者が求めるものを描くことを意識した」ということ。
昭和の時代に生まれ、平成、令和と過ごしてきて、以前は許されていたことに対して厳しい目が向けられるようになってきたと感じます。
言葉を選ぶ必要はあるのかもしれませんが、「正しさ」が求められ過ぎて、そこからはみ出る「人」や「事」に対して、批判が過剰に表れた結果、逆に生きづらさにも繋がっているように思うところもあります。
12サインでいえば、「乙女」と「魚」のオポジションの関係にも似ているかもしれません。
いろいろあるけれど、受け入れようとする魚に対して、細かく分類してそぐわないものを排除しようとする乙女。
どっちが正しいということではなく、バランスが大事です。
ただ、現実の世界では地のエレメントである「乙女」が優位になっているように思います。
理由はいろいろあるのですが、他の人の気持ちを想像する余裕自体がなくなってきていることもあると思いますし、他者と関わらなくても生きることが可能な社会に変わってきているというのも大きいと思います。
そしてそれは、時にギスギスした雰囲気を生むことも。
ですが。
漫画などフィクションの世界ではギスギスしたものは見たくない、そんな風に考える人が増えたのかもしれません。
物語の中だけでも、みんながいい人であってほしい。
こういうのは「魚」の世界観を感じさせます。
現実はそうではない。
いろんなものが細かくカテゴライズされていく。
そこからはみ出るものは異質で排除するべき。
「人の嫌がることはしない」
という曖昧な表現では通用しないからこそ、より現実に見合ったルールとして整えられていく。
それは必要なことでもありながら、同時に窮屈さやそこからはみ出た時の不安に繋がっていくようにも思います。
ルールからはみ出たものに対する救いが、漫画にには描かれています。
ちょっとこれって、と乙女目線で指摘が入りつつも、魚の救いも同時に描かれハッピーエンドを連想させる。
絶妙なバランスだなと、作者の方のチャートを拝見すると、乙女に太陽火星のタイトなコンジャンクションがあり、さらにはそこにパラスもくっついていました。
2作品同時連載していたりするパワフルな部分はそのまま太陽火星ぽいですし、そこに「職人」や「技術」「手作業」といった象意をもつパラスがくっついているのはそのまんまだなという印象を受けました。
連載開始時期を見ると、このネイタルの乙女の天体たちに対して、トランジットの魚の海王星がオポジションになった頃となっています。
乙女の得意な「求められるものに対して最適なものを差し出す」という部分が、世の中の「魚海王星的なもの」を察知して、作品として世に出されたのではないかと勝手ながら想像してしまいました。
やっぱり「海王星」はその時代の雰囲気を表しますね。
これからは牡羊的なものが好まれる時代になっていくのかもしれません。