娘の私に対する「反発心」がすごいです。

あーいえばこういう、といった状態が増えてきて、めんどくさい。

 

来年は中学生、そういう時期だと理解しているし、自分のことを振り返ると、娘以上にもっとトゲトゲしていたので、まぁ、かわいいレベルではあるのですが、だからといってこちらも菩薩の心はもちあわせていません。

なかなかそのままを受け止めるということは難しい時もあります。

 

まぁ、わかりやすく「反発心」と表現しましたが、そもそも「親子」という関係性だからこそ、そんな状態の娘に対しても「親の義務」という部分で受け流したり、「今まで一緒に過ごしてきた時間」があるからこそ、そこは「愛情」ということを理由に受け止めたりできるのかなーと思います。

 


これは、私特有の考え方である可能性を断ってから書きますが、

 

「親」や「親子愛」というのは最初からあるものではなく、時間をかけて作られていくものだと思うし、どのくらい深くかかわったかにも左右されるものなのではないかと考えます。

 

例えば。

ある日突然、娘が目の前に現れて、

「この子はあなたの娘です。なので親としての義務があります。」

っていわれたとしたら。

 

もちろん「親の義務」は考えるかもしれませんが、「愛情」はそう簡単にわかないでしょうね。

 

 

で、タイトルの件になるんですが、

「そのままの自分を受けれてほしい」

という願望って、多くの人が普通にもっているものなのではないかと思います。

 

でも、それってなかなか難しい。

 

もちろん4ハウスが表すような「家族」って、そういう意味では、一番近いところにあるのかもしれません。

ワガママ含め、受け入れてもらいたい場所であったり、ダメな部分をさらけだしても人が離れていきにくい場所。

 

4ハウスも10ハウスも「集団」を表しますが、10ハウスでは「社会で成功すること」「社会的に存在を認められること」が大事になってきます。

人とうまくやっていけるかどうかももちろん大事ですが、それを上回る「能力」や「個性」があれば受け入れられやすいというか。

 

「人としてどうかと思う部分はあるけれど、それでも結果は出してくるよね」


みたいな評価をされやすいのが10ハウスです。


めっちゃ腕のいい職人さんが無愛想でも、許せたりするような。


反面、ホスピタリティを求められがちな職業の人が、態度が悪かったりすると、大きく責められたり。


その人の社会的な立場によって、同じことをしても、周囲の反応が違ってくることってあります。

 

 

一方4ハウスって、「地元」や「家族」など、もっとローカルな単位の集団です。そこで秀でた何かがなくても、それこそ足を引っ張るような部分があったとしても、「仲間だから」と受け入れられるようなところがあります。

そこにあるのは、家族のような感情的なつながりであったり、安心感です。

 

初対面の人でも「出身地が同じ」とか「苗字が同じ」とか、自分とどこか共通点があるとなんだか親しみを覚えるのにも似てるかもしれません。

 

4ハウスは「休息の場所」ですので、安心できるということが大事です。

その人の4ハウスの状態にもよると思いますが、「この人は家に入れても安心」という判断があるからこそ、自分のテリトリーに招き入れることができます。

いくら10ハウス的に人から一目置かれる人が相手だったとしても、気持ちの上で受け入れることができなければ、本心では家に招きたくないと考えるのではないかと思います。

 

「感情的に受け入れることができる」というのが4ハウスでは大事です。

 

 

なんとなくなんですが。

10ハウスって、天職、適職、社会的到達点、なんていわれるように、ここを目指せー、という雰囲気があるので、ちょっと頑張らないとたどり着けない場所のようにとらえられることが占星術では多い気がします。

 

一方4ハウスって、「家族」とか「心の安定」とか、当たり前だったり無意識だったりして、言い方悪いですがあんまり注目されないようなところがあるような。

 

ですが、昨日も確か書きましたが、「10ハウス」を目指すには、軸の片側である「4ハウス」も大事なんです。


「生き辛さ」には4ハウスも大きく関係してきます。


4ハウスで安心できる場所を作るって、ただ「そのままの自分を受け入れてほしい」じゃダメで、むしろ自分から働きかけることも大事になってきます。

アンギュラーハウスですしね。

 

それは「相手のことをまずは受け入れる」というところから始まります。

蟹サインを考えるとやっぱりわかりやすいかもしれない。

 

娘の話に戻りますが、「親子」や「家族」というものは、時間をかけてその関係を築いていきます。

「受け入れる」「受け入れてもらう」ということがバランスよくできるといいのかもしれませんが、対等であるべきと考えるのであれば、それはむしろ「7ハウス」的。

 

理想論ですが、子供は無条件に親の愛情を受け取ることで、自分の中を「愛情」で満たしていく。

満たされた愛情を、今度は自分から身近な人たちに広げていく。

与えるからこそ受け取ることができるし、受け取ったものをまた与えたりと、一方通行ではないのだと思います。

 


私が娘の反発心に対してイラっとなりつつも、「成長したなぁ」と言葉を置き換えることで冷静になろうとするのは、幼い時からの関係性の積み重ねがあっての上だし、でもそれだってこの先この状態がずっと続くようであれば、「親の義務」だけを感じるようになるかもしれません。


反抗期というのは自我が育っている証拠といいますが、もしかしたら「どんなことをしても自分は親に受け入れられているかどうか試している」のかもしれませんね。


そこで安心できると、今度は与える側にまわり、さらには自らそういう場を作ることができるようになるというか。

 

ただ、「反抗期がなかった」いう子も聞くので、人によるのかもしれません。



どちらにしても「そのままの受け入れてもらう」為には、自分も同じだけ身近な人を受け入れられるかにかかってくるのではないかと思いました。