自由民主党機関紙 『月間自由民主』

2004年 発行

 

映画と政治 (ストーリー構成から観た政治)

 

衆議院議員 伊藤信太郎

 

国民は政治に何を求めているのであろうか?

すべての国民が複雑怪奇な国家システムや国際社会の詳細を解り、その相互関係や自分への利害得失を理解することはかなり難しい。従って政治上の判断をする時、誰が善人で誰が悪人であるというような単純化されたドラマとして理解し判断する方が遙かに容易である。政治報道にも必ずといっていいほど、この善悪の隠喩が包含されている。その意味では政治ドラマと映画のシナリオの構造には共通のものがある。

私は日本人として初めてロサンゼルスのアメリカン・フィルム・インスティテュートの監督フェローとしてアクセプトされて渡米した。この AFI はポスト・グラデュエイト・フィルムスクールで、既に大学や大学院教育を終え映画製作に何がしかのキャリアのある者が世界中から集まってきている。

ここで私は四本の映画の脚本を英語で書き監督したが、その過程を通じて多くのことを学んだ。アメリカでは映画も学問的、科学的分析の対象として研究し教育している。AFI 流の映画のストーリー構造分析では、まず三つの構成要件が検証される。一つ目は「誰」の話であるかということ。主人公は一人でなくてはならない。二つ目はその主人公に、どのような「キャラクター・デベロップメント(人格の変化)」があるかということである。

映画のファーストシーンに登場する主人公の人格と、ラストシーンにおける人格が同じではならない。そこに何らかの変化がなければストーリーは成立しないのである。

例を挙げれば、不良少年が立派な青年になるというようなものである。そして三番目に最も重要な「プロミス」。

これは日本流にいえば、話を通じて訴えるテーマの約束事である。これは二つの名詞と一つの動詞によって表現する。このプロミスのあり方は、その国の文化や価値観により大きく傾向づけられている。アメリカにおいて最も一般的なプロミスは、「善は悪を倒す」である。

良いストーリーというのは、この三つの構成要件が明瞭で誰にでも理解可能な話である。“話が見えない”という場合は殆ど例外なく、誰の話か、どのような人格の変化があるのか、何がプロミスかが、はっきりしない筋立てになっている。そして、この「誰」「人格変化」「プロミス」が、時代や文化の相違を超えて人に理解される訴求性と深さを持っているのが普遍的な話である。例えば、かの有名な「ロミオとジュリエット」では、一の主人公はジュリエットであり、二のキャラクター・デベロップメントは少女が女になることであり、三のプロミスは、愛は死を乗り越えるである。シェークスピアによって数世紀前に書かれたこの作品が、世界中で翻訳されて繰り返し読まれ、映画として何度も作られヒットするのは、話を構成する三要件に時代を超越する人類共通の普遍性があるからである。昔外国で作られた名作映画が、今でも人々の心を打つのはその作品に普遍性が備わっているからである。このような作品は「マスターピース」といわれる。逆に、ある地域やある時代にのみ理解されうけるものは、ローカルな一過性の作品である。このことは政治の世界にもアナロジーがある。

我々が政治を理解しようとする時、政治記事を読む時、政治番組を見る時、無意識に、これは誰の話か、どのような人格の変化があったか、そこでのプロミスは何かを読み取ろうとしているのではないだろうか。

マスコミも、そのような読み取りができるような隠喩を、あちこちにちりばめている。今太閤といわれた某総理の話等は、マスコミがそのような筋立てをした端的な例であろう。しかし政治の世界に、普遍性をもって人の心を打つ話=マスターピースが、どれ位あるかといわれれば甚だ心許ない。ブッシュやフセインの“話”が、マスターピースになるかどうかは、後世の人々の判断を待たねばならない。

ストーリーを理解するもう一つの手立ては、主人公=正義、味方、敵=悪との関係性である。主人公は常に正義であり、味方と敵に囲まれて生きている。主人公が敵に接する場面が危険(ジェオパディ)であり、敵が最大になって負けそうになるのが危機(クライシス)であり、味方を得てそれを覆し乗り越え勝利することによってカタルシス(感情の浄化)があるというのが、ドラマトゥルギー(劇製作法)の本質である。政治の世界でも、特定の政治家や言論人やマスコミが、主人公=正義を決め、敵味方のレッテルを貼ることによって、誰でも理解できる善悪に色分けされた「お話」を創っている。

敵であり悪の代名詞、レッテルとして使われる族議員、守旧派、抵抗勢力等の言葉は、その目的で造語され政治脚本の中で活用されている。政治改革、道路公団の件等でも、これにあてはめて考えてみると頷ける点が多い。マスコミも政治家も、この単純化された「善悪ドラマ」を利用して、それぞれの目的を果たしている。また、それがうけるのであるから、多くの国民が政治に単純な善悪ドラマトゥルギーを求めているといっても過言ではないだろう。このような傾向が危険であることはいうまでもない。民主政治が一歩間違うと衆愚政治になる由縁である。

レーガン元大統領も、この度カリフォルニア州知事に当選したシュワルツネッガー氏も俳優出身である。シュワルツネッガー氏は「ターミネーター」等の大ヒットした勧善懲悪アクション映画のヒーロー役を多く演じた現役のスターである。

歴史的に検証すると、それぞれの時代それぞれの国でヒットするドラマのヒーロー像と、その時代その国で政治家として人気を得る人物像とは、かなりの点で一致している。映画「ダーティハリー」等の勧善懲悪アクション映画でアウトローのヒーロー役を多く演じた俳優クリント・イーストウッドは、アメリカだから市長に当選したし、後述するレジスタンスの闘士ミッテランはフランスでは大統領になれても、アメリカでは決して大統領になれない人物像である。

翌年私は東海岸に移動し、ハーバード大学院に入学した。ここで一番驚いたのは、社会科学におけるアップデイト性である。私がハーバードに留学している時、日本では大平内閣の下で総選挙があった。私は父伊藤宗一郎の選挙を手伝うため選挙期間の最後の三日間だけ帰国し、投票日の朝、開票を待たずにアメリカに戻り、ボストンの空港から大学の教室に直行した。するとハーバードの日本政治研究のジョイント・セミナー(複数教員による共同授業)では、既に元駐日大使のライシャワー教授とマックドゥーガル准教授が、十数時間前に行われたばかりの衆議院選挙の結果を分析し議論していた。

当時の日本の大学では考えられない敏速さである。このジョイント・セミナーのもう一人の教員は、小和田恒客員教授(当時)であった。この討論には、教授、准教授、大学院生、学生が対等の立場で参加していた。これも日本の大学では考えられないことである。

アメリカの社会科学の研究には、スピードとダイナミズムがあった。十年一日の如く同じ大学ノートで講義する教授などハーバード大学には一人もいなかった。総選挙での自民党の勝利の理由に対するライシャワー教授とマックドゥーガル准教授の意見の相違も面白かった。ライシャワー氏が大平総理の政策を挙げたのに対し、マックドゥーガル氏は「タナカズ・マネー(田中角栄氏の資金力)」といったのであった。

こんな遠慮ない意見の開陳も、日本の大学ではあまりない話である。小和田客員教授が、その時何とおっしゃったかは残念ながら記憶にない。

私は大統領選の当たり年に海外にいた。アメリカでは、共和党のレーガン氏が民主党の現職カーター氏を破った1980年にいた。アメリカの大統領選挙は、テレポリテックス(テレビ政治)の極みである。

民主党、共和党が、それぞれの指名候補を決める党大会などは巨大なテレビショーである。そこでは演説の中身よりも候補者のイメージが先行する。大袈裟な舞台セット、ミュージカルショーのような音楽や風船や紙吹雪や派手な衣装。

すべての大統領候補はメディア・コンサルタントを雇い、テレビ写りの良いようにショーアップする。スピーチは専門のスピーチライターが書き、ボイスコーチが発声を矯正し、コリオグラファーが振り付けをする。正に候補者は候補者という役を演じている役者のようである。

一説によるとレーガンは最後まで大統領という役を演じ切ったといわれている。1980年の民主党大会の指名選挙で敗れた後エドワード・ケネディが行った演説は見事であった。演説の結びの「ドリーム・シャル・ネバー・ダイ(夢は決して死なず)」は名文句で、23年経った今でも私はその印象を鮮明に覚えている。

ひょっとしたらこれはキング牧師の演説「アイ・ハブ・ア・ドリーム(私には夢がある)」から、スピーチライターがヒントを得て書いたものかもしれない。

当時アメリカのマスコミは、こぞって若しこの演説が一日前に行われていたらケネディが指名されていたかもしれないと囃し立てていた。政治のシーンも映画のシーンと同じく順番が大事である。

同じ演説でもタイミングを逸すると、その意味を失ってしまうことを目のあたりにした気がした。

民主党、共和党の大統領候補同士のテレビ討論は、手に汗握るイメージゲームである。

候補者の顔形、表情、体形、スーツ、ワイシャツ、ネクタイの色形、しぐさ、しゃべり方等によって、イメージ係数が秒単位で変化し、それが支持率に直結する。又、アメリカでは政治家のテレビコマーシャルは自由なので、車の宣伝さながらの CM 合戦が相手候補に対するネガティブキャンペーンも含めて辟易するほど繰り広げられる。私は果たしてこれが本当に民主主義のあるべき姿かと思う。

これは政治的イメージ・マーケティングに他ならない。結果、資金のある方が有力な広告代理店を使い膨大な量のテレビCM を打って勝利することになる。またセリフを上手にしゃべり正義の味方の役を演ずる能力と、国家国民のための政策を立案し実行する能力とは別のものである。しかし候補者はこの苛烈なイメージ選挙に勝たなければ、政策もへったくれもないのである。これが民主主義の陥穽である。

フランスに移り住むと翌1981年に、現職のジスカール・デスタン大統領とフランソワ・ミッテラン氏とジャック・シラク氏の間で大統領選があった。やはりお国柄でフランスの大統領選は、アメリカの大統領選とはだいぶ様相を異にしていた。

仏では米ほどテレビ選挙ではなく、中心は言葉の戦いであった。フランス人は、かくも言葉の好きな国民である。自由、フランスの栄光、平等、博愛、フランス文化の優越性、歴史の記憶、レジスタンス、汎欧州主義、ユマニテ、アイデンティティ、エスプリ、共和制、民主主義、中央集権、普遍主義、覇権、反帝国主義、反植民地主義、中道左派、中道右派、コーリション、コーアビタシオン、ゴーリズム(ドゴール主義)等々、彼らの演説は言葉の玉手箱のようである。また政治家の受けた教育や経歴や社会的背景も判断の重要な要素であった。エガリテ=平等を叫ぶフランスであるが、その内実は階級社会である。

デスタン氏の貴族性や、デスタン氏やシラク氏がエナルク(エリート国立行政学院 ENAの卒業生)であることや、ミッテラン氏が第二次世界大戦中レジスタンスの闘士であったことが議論の種になった。当時ヨーロッパは、まだイデオロギーの時代でもあった。

デスタン氏率いる UDF(フランス民主連合)と、シラク氏率いる RPR(共和国連合)と、ミッテラン氏率いる社会党と、フランス社会党の分裂によってできた共産党との合従連合と対峙の選挙であった。シラク氏は1974年から76年までデスタン大統領の下で首相を務めたが、76年政策路線の違いから首相を辞任し共和国連合を創設して総裁に就任し、77年よりパリ市長にも就任していた。どの候補も過半の取れない中で、結局シラク氏の共和国連合、共産党が社会党に加勢したためミッテラン氏が競り勝ちした。

投票日の夜、私はある陣営のフランス人と、他の各陣営との交渉をしながらパリの街を走り回っていたので、仏政界の権謀術策を垣間見た気がした。デスタン氏はシラク氏(現大統領)に非常に腹を立てていた。日本の自民党総裁選を彷彿させられ古今東西これは政界の常だなと感じた。

総括すればフランスの大統領選は、歴史、イデオロギー、政党間の駆け引き、階級、候補者の資質、人間関係、マスコミ(特に新聞)の思想性等が、複雑に絡み合って勝敗を決めるものであった。その点、テレビ、資金力、支持団体の強弱、州の力関係、個人のビジュアルな魅力等に、大きく左右されるアメリカの大統領選とは大分違っていた。

ところで政治に普遍的なストーリーはあるのだろうか。

私は政治の究極の目的は、すべての人が幸せに生きることができる社会を創ることにあると考えている。

その意味では、最深層において“普遍”は存在し得る。しかしながら、政党が、国家が、自己目的化し、自らの保存と拡大自体が目的のようになっている現状を脱却しない限り、政治における普遍=マスターピースの創出は甚だ難しい。

真の政治改革とは、選挙制度の変更というような矮小なことではなく、「人間の幸せとは何か」いう本質的な命題に対して真っ向から対峙し、それを捉える価値体系や意識構造を基層において自由に変革することではないだろうか。

そのことが、我が党の党名が真に意味するものであると私は信じている。

(了)