2004年・発表文

人の幸せと住むこと

 

衆議院議員伊藤信太郎

 

(はじめに)

 

人は何のために生きているのであろうか?これは古今東西人生究極の命題である。

私は、人は幸せを求めて、言葉を変えれば幸せを創造しようとして生きているのではないかと考えている。もとより価値は物質に内在していない。人の心の中に創造されるものである。幸せという形而上学的概念も人間が創造した価値である。

人間は生物学的に言えば弱い存在である。その人間が生存するために社会を形成することが必要不可欠である。そのため人類は共同作業としての農耕を始め灌漑をし、過剰農産物が生まれ食料の蓄積ができ、非農業者ができたことで都市文明が作られた。都市は発展し、あらゆる機能分化がもたらされた。しかし今その都市が疲弊している。都市に住む人も疲弊している。犯罪が増え家庭が崩壊し社会の連帯が無くなり都市のアメニティ(快適性・利便性)が喪失されてきている。一言で言えば人が幸せで無くなってきている。何故であろうか?それは都市が、人が幸せを創造し得る環境を作ってこなかったことにある。機能は目的のために作られる。しかし今日の都市計画や開発は人を幸せにするという本来の目的を失って機能主義に陥ってしまったのではないだろうか?

本書では都市や住居のあり方を、人の幸せ追求を中心課題に据えながら、人生における価値観、ライフスタイル、比較文化論、文明論の立場からインターディシプリナリー(学際的)に論じる。

 

 

(アメリカの都市構造とライフスタイル)

 

アメリカの都市構造は大きく分けて東海岸と西海岸、中西部、南部とで異なる。

私は西海岸のカリフルニア州ロサンゼルス市、東海岸マサチューセッツ州ケンブリッジ市に通算2年半住んでいたのでその経験から幾ばくかのことを書きたいと思う。

カリフォルニア州ロサンゼルスでは私は4回引越しをした。

 

はじめ住んだのは UCLA のリバース・ホールというドミトリー(学生寮)なので住環境というにはおこがましいが、強いていえば日本の学生寮に比べて圧倒的にスペースが広く、かつ共有施設や選択可能な共同住人としてのイベントがあったことが言える。

カリフォルニアであるので陽光がさんさんと降りそそぎ、けっこう楽しい暮らしであった。難点は二つあった。ひとつは食環境。ドミトリーなので、三食ドミトリーのカフェテリアでセルフサービスで食べるのであるが、ほとんど全ての料理がオーバークック(煮すぎ、焼きすぎ、長いこと温め過ぎ)で、大味かつ過剰な脂肪分と砂糖を含んでいた。

アメリカに留学した日本人は、しばらくすると顔つきが変に膨れてアンバランスになると言われているが、この食環境を見ると頷ける気がした。

アメリカにおいてはコカコーラに含まれている砂糖の量も日本のものより遥かに多いのである。

もうひとつの問題はシャワーである。共同のシャワー場があるのだが、お湯の温度が一定しない。突然、熱湯に近く熱くなったかと思うと、また急に冷たくなったりする。他の人のシャワーの使い具合で変わるのである。それが見える男子用のだけであれば予測可能であるが、見ることのできない壁の反対側にある女子用の影響をもろに受けるから始末が悪い。なるべく多くの人がシャワーを利用しない時間を狙ったものである。

その次に移ったのは、ブレントウッドの木造アパートである。ここは一階が駐車場、二、三階がアパートの部屋、建物がコの字型になっており、端に屋外プールがあった。

ロスアンゼルス辺りでは、高級でなくてもアパートに住人用のプールがあるものが多い。ちなみにこの時の家賃は、1K ファニッシュド(一部屋+台所 家具付)で、月215

ドル(当時の為替レートで約4万円)であったから、値段の割に優雅なアパートであった。借りた三階の部屋の窓の真下にプールがあり、眺めると年がら年中、水着の美女が水泳や日光浴を楽しんでいるのでそれなりに楽しいところであった。

しかし難点があった。スペースである。1Kといっても8畳位あり、それなりに広いのであるが、リビング、ダイニング、書斎スペース、寝室がいっしょで、やはり段々窮屈になってきた。そこで同じアパ-トの2Kに移った。ここはプールに面しておらず前述の楽しみは無くなったが、アメリカの戦死者の墓地に面しており、プールの歓声の聞こえない静かな生活となった。

ところがここでは違う問題が起きた。木造アパートの遮音性の悪さもあり、まったく下に伝わる音をたてないで暮らすことは不可能である。今回も三階の部屋であったのだが、真下の二階の住人がまこと神経質で激しやすい住人で、朝がゆっくりなうえに、ちょっとした物音でも起きる方であった。少しでも下にもの音が伝わると、直接どなりこんできたり、あるいは電話で一方的にまくしたててきた。そこで毎朝、抜き足差し足で用意をしてアメリカン・フィルム・インスティテュートに向かうのだが、それでも騒音で警察に訴えるというのである。

日本でもアパートかマンションで、ピアノの練習の音がうるさいことに起因して殺人事件が起こったが、ましてや場所が元アメフトのスター選手O・J・シンプソン夫人や愛人の惨殺事件の起きたブレントウッドである。

命のあるうちにと、荷物をまとめて(大した荷物もなかったが)、ハリウッドに移ったのは、今思えば賢い選択だったかもしれない。

ハリウッドのウィルビー通りのアパートはスパニッシュコロニー風の2階建ての建物で、ここでは一階の通りに面した部屋を借りた。今回は2Kファニッシュドで、家賃は月200ドルだった。ここにはプールは無かったが、なかなかコージーな雰囲気のある所で、アメリカン・フィルム・インスティティユートのフェローが8戸くらいしかないこのアパートに4人も住んでいて、AFI のドミトリーともいわれていた。ここでの問題は、前の逆のケースであった。一階の道路に面した部屋にしたのは良かったのだが、ウィルビー通りはかなり交通量のある通りである。朝から晩まで車の騒音に悩まされた。

そして窓のすぐ外が何とゴミの集積場であった。アメリカのギャベージボックス(巨大なゴミの収集用の直方体の金属製のボックス)は、ゴミ用のトラックが金属製のツメで引っ掛けてボックスをひっくり返しゴミを自動的にトラックに積めるようになっている。

それは人間の労力を使わないでいいようにするという意味では合理的な方法なのだか、物凄いカナキリ声のような騒音を出すなかなかの代物である。それが寝ている窓のすぐ外で大音響をたてる。住居の選択はなかなか上手くいかないものである。

やむなくその後引っ越したのが、ハリウッドからバーバンクに抜ける途中にあるローウェルキャニオン(峡谷)の一軒家である。ここはルックアウトマウンテン通りという誠に眺めの良さそうな住所だったが、まさにその通り窓から山と木しか見えない静かな素晴らしいロケーションだった。

映画監督のスティーヴン・スピルバーグが、直前まで住んでいた家で、ここで映画「未知との遭遇」の脚本を書いたという。確かに夜、書斎からは静寂の中、星空がよく見える。なんでもスティーヴン・スピルバーグは、映画が当たり収入が増えたので、もっと高級なビバリーヒルズに家を買い引っ越して行ったそうである。

700平方メートル位の敷地に二階建て、5ベッドルームで各フロアにキッチンとバスルームが一組ずつあり、庭には温水プールもあった。家賃は1150ドルであった。

一時期、知り合いとシュアしながら東海岸に移るまでこの家に住んだ。アメリカではあまり親しくない間柄でも、借家をシュアすることは頻繁に行われている。

はす向かいの家には映画俳優のポール・ニューマンが住んでおり、ここは文句なく素晴らしい住環境だった。強いて言えば、買い物をするのに最低15分、混んでいれば20分かけて車でスーパーマーケットに出かけなければならないのが大変だった。

ここまでアパートや借家のことを中心に書いてきたが、少しロサンゼルスの都市構造とライフスタイルについて述べたいと思う。

先ずロスは本当の都市ではないと思う。第一に中心がない。村や町がいくつも集まって規模としては大きくなっているが、真の意味での中心がない。もちろんダウンタウンがあり、ハリウッドがあり、センチュリーシティがあり、ロデオドライブがあるが、ある特定の機能をもった集積地域に過ぎず中心とはなり得ない。

ロサンゼルスを形作っているものは、フリーウエイと24時間オープンのスーパーマーケットである。

自動車会社の陰謀もあって鉄道が廃止された過去の経緯もあり、ラフなバス網以外まともな公共交通機関が無いので、人はやむなく車で移動している。

通勤時の交通ラッシュは凄まじい。空気もくすんだ黄色くなっている。私はロスに住んでいて何か殺伐とした感じを受けた。ロスには本来都市が持つべきアメニティが無いのである。

ロスのもうひとつの特徴は、住宅地域が年収と人種によって区分けされていることである。アメリカ人は住居のモビリティが高いが、それは転勤だけでなく年収が上がるとそれに応じて高級住宅街に引っ越すためである。

高級住宅街には入り口にゲートがあり住民とその関係者以外は入れない所がある。ビバリーヒルズの様な高級住宅街では、表の道路とゴミ集めなどに使う裏の道路があり、ゴミ集めやストリート・クリーニングの回数も多く、応益課税である住民税も高い。

すべてがマネーオリエンテド(拝金志向)で物質の量が豊かさの尺度であり、コマーシャルはあるがカルチャーが無いのが、典型的なカリフォルニアのライフスタイルの様な感じだ。ただ太陽の光だけはふんだんにあった。

 

(マサチューセッツ州)

私は車に僅かな家財道具を積んで、カナダ経由でアメリカ大陸を横断し、マサチューセッツ州に入った。

同じアメリカでも東と西では大分異なる。特にカリフォルニアとマサチューセッツでは大違いである。マサチューセッツ州は気候があまり良くない。冬は吹雪いた日は、鼻水や涙が出る前に凍る程寒く、また長く続きダンプといって雪が多く、湿っている。夏は夏で、じっとりと暑い。春秋は短く、良い気候の時期はあまり無い。

その中での住まい探しは、また違ったクライテリア(選択基準)でしなくてはならない。

私は、初めボストン市のコモンウェルス大通りに面した古めかしいロンドン風の建物の1Kのアパートに住んだが、ここではちょっとした騒動が起こった。夜寝ていると、何だか天井が妙に騒がしいのである。どうも小動物がパーティをして移動している風なのである。翌日台所を見ると、置いてあったパンやりんごが見事に食い千切られていた。鼠である。鼠のパーティは、次の日も、そして次の日も続いた。そこでこのアパートでは、一切料理や食べ物の買い置きができなくなり、朝食は傍のコーヒーショップで食べることとなった。昼食夕食もまた然りである。

仕方が無いので、ハーバード大学のハウジングセンターに行って、食事を作れる貸アパートや貸家を探すこととなった。

いろいろ探した結果、“難関”をくぐって、フレッシュポンド(大きな池)の傍にあるレイクヴュー通りの家の一階を借間することとなった。

この時期のケンブリッジ市では、賃貸物件が需要に比べ極端に少ないので、大家が多くの希望者の中から賃借人を選ぶことになる。この物件にも何十組もの応募があったが、多くのアメリカ人夫婦の希望者がいる中、日本人で然も独身の私が、ボストン大学の女性教授でその家の二階に住む大家に選ばれて借りることができた。この辺りがアメリカ人の心の広さなのか、それともハーバードの大学院生であったというのが効いたのかは未だによくわからない。

この家は、ニューイングランド風の木造の家で、なかなか逸品であった。書斎、寝室、ダイニング、キッチン、広々とした居間、サンルームがそれぞれ独立してあり、賃料は月600ドルだった。それぞれの部屋には趣向を凝らした壁紙が張られていた。居間には暖炉があり、暖房は地下にあるコールストーブを熱源とするスチームによるセントラルヒーティングで、庭には大きな樹木が生い茂り、狸がいた。家具付ではなかったので、ガレージセールで安い中古の家具を買い集めた。一部は自分でも作った。ロスであったような騒音問題は一切起きなかった。同じアメリカでもケンブリッジ市は、ハーバード大学、MIT(マサチューセッツ工科大学)を抱える大学都市であり、アカデミックで思索的な雰囲気に満ち溢れていた。

大学にはいくつも図書館があるが、図書館で勉強する学生が多く、その一部は夜の12時や1時まで開いており、真冬の厳寒の夜中に、リュックサックに重い本を詰めた学生が図書館からぞろぞろ出てくる姿は、異様であったが、何か美しいものでもあった。街中に沢山ある本屋も夜遅くまで開いており、ハーバードスクエア付近のレストランやコーヒーショップでは、食事をしながら本を読んでいる人がいつも沢山いた。買い物も大型のスーパーに行く必要はなく、少し行けば八百屋や魚屋もあった。

勉強に少し疲れた時は、歩いて5分のフレッシュポンドに散歩に行けば、私の指導教官でもあり「ジャパン・アズ・No.1」の著者のハーバードのエズラ・ボーゲル教授がよくジョギングをしていて、私を見かけると「ハーイ!シンタロー」と声をかけてきた。

またボストンやケンブリッジ辺りには、ロサンゼルスと違って鉄道やバスが十分あり、車無しでも生活することができた。

クオリティ・オブ・ライフ(生活の質)は、街や物質の大きさには比例しないことを、アメリカの中でもここケンブリッジで体現した。

レイクビュー通りの家は大変気に入っていたが、1年間の契約期間が過ぎたので出なければならなかった。

そこで家具をガレージセールで売り、デーナ通りのファニッシュドの2K のアパートを借りたが、ここでも又鼠に悩まされた。

そこでボストン郊外のブルックラインでドイツ研究の大学教授のアパートを短期間借りた。彼がドイツに行っている間管理するという約束で、大変安く、しかも家具・食器・リネン・書籍付で借りることができた。

アメリカでは、あかの他人の外国人に、自分のプライバシーの中心まで管理させたり貸したりもするのである。

その後、ケンブリッジのウエア通りにあるハーバート大生のアパートも同じ条件で借りた。ここも何らかの理由で1ヶ月いないので、サブレット(又貸し)するというのである。当時の日本では考えられない慣行であった。何れにしても、今思えばアメリカ人のいろいろなライフスタイルを実体験する良い機会であった。

西海岸に比べれば東海岸の生活は、質感があり、都市のアメニティがあり、公共交通機関があり、知性も感じられたので居心地は悪くなかったが、私の中ではもっと歴史のあるヨーロッパに住み勉強したいという気持ちが頭をもたげていた。

そこで私はスーツケースに荷物をまとめると、アメリカを引き払いフランスへと向かった。

 

(ヨーロッパの都市構造とライフスタイル)

 

(フランス パリ)

パリに着くと全てがごった返していた。かねてからの友人の計らいで、私はセーヌ川左岸のサンジュルマンデプレの直ぐ傍にある“オテル・パテキュリエ”(貴族がその邸の一部を特定の人に貸して住まわすもの)のアティック(屋根裏部屋)に居を定めた。

そこはグルネル通り15番地で、真向かいにソニアリキエルのブティックがあった。

この部屋は5畳と4畳の2Kの屋根裏部屋で狭く、天井も端は頭が閊える程低かった。台所は1畳半位で、トイレと同じ空間にシャワーがあった。ベッドもスプリングが伸びきってペコペコになっておりお尻が沈んでしまうので、ベニア板を入れなければならない程であった。また天窓から見るパリの空は、5月と9月の一時期を除いて灰色に淀んでいることが多く、ヨーロッパの空は高いというものの、始終雨が降っていた。したがって折角開けることができる天窓も、ほとんど閉めっぱなしだった。家賃はさすがにパリの超一等地なだけあって、月2000フラン(約8万円)もした。

ここの難点は、トイレが詰まり易いことであった。ひとたび詰まると、バスルーム全体の床がシャワーからの水以外のもので水浸しになるから、まったく始末に負えなかった。特に大の時は、注意して何回かに分けてしなくてはならなかった。しかし、それでもパリでの生活は、非常に魅力的であり、刺激的であった。

パリの暮らしの素晴らしいところは、邸の中に入れば中庭があり静寂な住環境があるのに、一歩門を出れば、ブティックがあり、カフェがあり、レストランがあることである。

もっと言えばウォーキングディスタンス(歩行範囲内)に、学校もあり、劇場もあり、映画館もあり、郵便局もあり、銀行もあり、役所もあり、会社もあり、画廊もあり、アンティックショップもあり、パン屋もあり、ありとあらゆる生活に必要な、生活を文化芸術的にも豊かにする都市のアメニティがある凝集力を持って揃っていることである。

パリの人々は、エスノセントリズム(自国文化優越主義)が強く、必ずしもフレンドリーという訳でなく、意地悪な面も色濃くあった。

しかし、それでもそれを文化的優越感と劣等感の知的ゲームと思えば楽しめないこともなかった。パリに集まった多くの外国人芸術家達は、この文化的虐めに勝ち抜き、芸術的感性を高め、自らが根底的に持っている素質や才能と、パリの持つ独特な環境との狭間で、新たな作風を創出し、それがまたフランス文化の一部となっていったのである。

パリは不思議な街である。決して気候的にも住み良い訳でなく、決してフランス人がホスピタリティに溢れている訳でもないのに、世界中から芸術家が集まり、そこで新しい芸術文化を開花し、それがパリの芸術文化として世界に伝播していく。田舎から出てきた娘も、パリにきてしばらく経つと、パリジェンヌとして洗練され、何とも魅力的な存在になっていく。一種の魔都かもしれない。これはパリが長年に亘って醸成した独特の都市環境がなせる業である。

パリは、そこにいる人をロマンチックにさせ、芸術的な気持ちにさせる。女性のヌードダンスも、パリのリドやムーランルージュやクレージーホースでは、洒落た芸術文化的なショーとなっている。

パリでは1年近くグルネル通りのオテル・パテキュリエに住んでいたが、あるきっかけでエッフル塔のセーヌ川の反対側にあるシュン・ド・マルス公園から1本奥にはいったエリゼ・レクラス通りの優雅な古めかしいアパートの一階に引っ越した。

ここはフランス人の住んでいる所を、彼が日本に行っている間、賃借した。ブルックラインの場合と同様に、家具付、リネン付、食器付き、テレビ、オーディオセット付で、安く確か月2500フランで貸して貰えた。スペースも、リビング20畳、ダイニング12畳、寝室10畳、台所6畳と、前の屋根裏部屋の5倍以上で、天井もかなり高くて3メートル以上あり、広々としていた。一階なのでパリの眺めがないのが残念だったが、玄関ホールには美しいシャンデリアが輝く、気品のあるパリらしいアパルトマンだった。パリにも親日的でフレンドリーなフランス人が時々いる。

パリの都市構造は、まさに究極の都市構造である。構造自体が造形的に美しく、都市のアメニティがすべて揃っている。パリでは、生活することも、勉強することも、仕事をすることも、美術を鑑賞することも、そして何よりも人と会うことも、自由であり、可能である。そして、それらの全てをまっとうするために必要な移動は、歩いて、あるいは網の目の様に張り巡らされたメトロやバス網を使って、もちろん車を使っても行うことができる。

パリのメトロは駅と駅の間隔が短く、東京の地下鉄の様に長く歩く必要は無い。それぞれのカルチエには、行く所があり、見る所があり、何かをする所があり、居る所がある。おおむね五、六階建ての建物は、美的に均衡が取れており、一階には店、二、三階にはオフィスや学校、四、五、六階にはアパルトマンというパターンが多い。

パリでは、人は街を歩くことを楽しめ、生活に必要な全ての機能が一体となって統合し充実している。

パリで生活して思うことは、ラテンの血の入った人達は、その日その日を心地よく、感性に訴え、熱情的に生きることに、とても真剣であるということである。

そのための労苦を厭わない。例えば、美味しい焼きたてのパンを食べるために、朝食前に焼きたてのパンを馴染みのパン屋に買いに行き、夕食前にまた買いに行く。

ロサンゼルスで、一週間分のパンや食材を買って、冷凍にして保存して置くのと大違いである。どちらが合理的かと言えば、ロサンゼルスのやり方であろうが、どちらが感性に訴える幸せな生活かと言えば、パリのライフスタイルではないだろうか。

現在そのパリでもビジネスの効率向上のため、かつて2時間あったオフィスの昼休み時間が、1時間に短縮され、人々が自分の家に帰って昼食をとることや、レストランで人と話をしながらゆっくり食事をすることができなくなり、ファーストフードをも食べるようになってきているのは、実に嘆かわしい限りである。まさに文化も悪貨は良貨を駆逐するである。

ラテンと言えば、ラテンの血がもっと色濃く入っているのが、イタリアである。少しイタリアについて触れておきたい。

 

(イタリア)

実は私は大のイタリア好きである。正確には数えていないが、もう50回は訪れていると思う。

十九歳で初めてローマのレオナルド・ダ・ビンチ空港に降り立った時から、私はイタリアのファンになった。

先ず空港からバスで市内に向かったのであるが、車中では、イタリアの兵隊さんが鼻歌を歌い、皆に笑顔を振りまいていた。軍人としては問題かもしれないが、人間としては好きになれた。

それから翌日レストランで、映画「ベニスに死す」に出てくる少年よりも、若く美しい少年を見たので、映画に撮りたいと傍にいる両親と思しき男女に言ったところ、見知らぬ外国人の私に快諾し、家にまで招待してくれた。

その後、その家族とは20年以上も付き合っている。彼らのフロシノーネにある別荘に、クリスマスの夜呼ばれていった時のことは、今でも忘れられない。

クリスマスのミッドナイトに、町の中心の丘の上にある教会でイブのミサがあり、ミサが終わると、教会の前の広場で焚火を囲んで町人の集いがあり、焚火を囲んでの合唱が始まった。人々は時には肩を組み、時には手を繋ぎながら、夜空の星にめがけて賛美歌を歌い続けた。それはハーバード大学で、真夜中の図書館からリュックサックを背負って出てくる学生と同じく、一種独特で異様だが、何か美しい光景だった。

エトランジェ(異邦人)として、そこに佇んでいた私の頬に、何故か涙が流れた。友人のイタリア人が、それを見つけ「シンタリーノ(イタリアでは親しい友人から私はそう呼ばれている)何か悲しいことでもあるのかい?」と訊いてきた。

私は首を横に振って「違うよ!幸せ過ぎて感動して涙が出るのさ」と言った。

これは随分長いこと、日本では忘れていた感情だった。年齢も職業も生活も違う人達が、町の中心に集まって、共通の文化を継承し楽しみ育む。そして、そこに何かを共有したという親近感や連帯感が醸成される。

素敵なことではないか。幸せとは案外そんなものかもしれない。

イタリアのすべての町には必ず中心がある。そこにあるのは教会であり、そしてその前には、大抵“ピアザ”と呼ばれる広場がある。

夕方になると、人々は別段用が無くても、ピアザに集まり、ぶらぶらする。そして知り合いを見つけると、声をかけ談笑する。別にお金は使わない。それでも豊かな生活ではないだろうか?

町を縦に見ると、一階にはレストランやトラットリアやオスタリアやピッザリアやバールやブティックのような店、二、三階にはオフィスや学校、そして四五六階にはアパートという風になっている建物が多い。日本の様に、ここは商業地区、ここは住宅専用地区という具合には分かれていない。空間を3次元で使っているのが、都市であり小さな町でもそうである。

だから町では、階段を下り、ちょこちょこっと歩けば、直ぐ友達に会うことができ、コーヒーを飲め、食事もできる。必要であれば、床屋や美容院に行くこともできる。15分もあれば、ショッピングもできる。

それこそ都市のアメニティではないだろうか。何処に行くにも長く電車に乗って揺られなくてはならなかったり、渋滞や駐車場や飲酒運転で捕まることや高額のタクシー代などの心配をする必要もなく、心おきなく友人と語り、好きな人と食事をし、友達の家を訪ね、酒を飲んだり、ポーカーを興じたりできることの方が、銀座辺りの途方もなく高いバーで、好きでもない人達と一緒に一杯○万円の怪しげなドンペリニオンを開けるより、私には意味のあることのように思える。

私はローマ、ミラノ、フィレンツェ、ベニス、トリノ、ナポリ等は勿論のこと、イタリア中のほとんどの州と何十という町を訪れた。シチリア島もカプリ島もサルディニア島もポンザ島もトレミティ諸島にも行った。イタリアを旅する楽しさはいろいろあるが、特筆したいのはイタリア人の憎めない人懐っこさと、料理とワインの地域性である。それぞれの町には、それぞれの風土性に根ざした郷土料理があり、地ワインがある。

それぞれの家には、その家に代々伝わる料理法やレモンチェロ(イタリアの食後酒)の作り方がある。イタリアでは、よく友達の家に招待されて、手作りの料理をご馳走になったが、一番美味しいのはこの家庭料理かもしれない。またレストランに行く時でさえ、自分の家の葡萄畑の葡萄で作った自家製ワインを、料理に合わせて持っていくイタリア人の友人がいる。これらのことは本当に素晴らしい。これこそ生きた文化ではないだろうか。

アメリカのフリーウエイを走っていて閉口する、どこに行ってもまずい大味のストックフードを出すレストランチェーンのフード(敢えて食事とは言わない)とは大違いである。

日本の高速道路のサービスエリアのレストランも、ややこの類になってきていることは嘆かわしい。それぞれの地域の郷土料理を地産地消で作り提供したら、どんなにか日本の高速道路の旅も、味わい深いものになるのにと思う。

地産地消の料理と言えば、私はスローフード発祥の地ブラの町に行った。このスローフードを宮城県にも紹介したが、スローフード運動が、イタリアで生まれたことは頷ける。

ちなみにローマでは、昼休みが1時から4時までの3時間ある。これは昼食を家に帰ってゆっくり家族と食べ、シエスタ(昼寝)をするためである。これはイタリアの気候・風土を考えれば、まことに理に適っている。こういうところから生活の潤いや、家族の連帯や、美に対する感性が生まれてくるのである。勿論スローフードは、単にゆっくり料理を作り、ゆっくり食べるという運動ではない。

人間が人間らしく海山大地の恵みを活かして、それぞれの風土性の上にある固有の歴史・伝統・文化を重んじて生きていける循環型社会を営んでいこうという本源的自然回帰社会運動であり、哲学なのである。

そもそも、日本もイタリアも、かつては共に、それぞれの地域で、凝集力の強い、循環型で自己完結性をもった社会を形成し、百数十年までは、いくつもの「お国」に分かれていたという共通の歴史を持っている。

スローフード運動は、21世紀のルネッサンス(自然再生-自然復興)運動とも言える。そして、“グローバリゼーション”という名のユニラテラリズム、あるいはアメリカナイゼーションへ対する強烈なアンチテーゼなのである。

ルネッサンス期に、人口が減ったにもかかわらず社会を豊かにした人類史上稀に見る経験を持った国がイタリアである。だからイタリアは、超少子高齢化、そして人口減少が目前にある日本の未来戦略を構築する上で、いろいろなヒントを与えてくれるのである。

そのイタリアが、自国通貨リラを捨て、ユーローという共通通貨を使い、EU という壮大な社会実験に参画したことは誠に興味深い。固有の歴史・伝統・文化の維持・存続

と、共通の超国家システムのプレーヤーとなることが、どの様に両立できるのかは、まさに神のみぞ知るである。

 

(まとめ)

 

アメリカナイゼーションと画一化の弊害は、都市構造とライフスタイルでも顕著である。

中心をビジネス街、官庁街に、住宅は郊外に、そしてショッピングは大駐車場のある巨大なスーパーでというアメリカ型の新興都市をこれ以上作るべきではない。

シカゴを見て見ればよい。中心はスラム化し、夜安心して歩けない町になる。

人々の連帯も無くなり、皆疑心暗鬼して他人を見るようになる。日本の一部の都市では、既にそうなってきている。これは、日本の風土性や、歴史・伝統・文化に反する。

私は、日本は日本流の21世紀型のルネッサンス運動を提唱し推進すべきであると考えている。

また都市にはスケールメリットとスケールデメリットがあり、ある規模を超えるとスケールデメリットの方が大きくなり、都市のアメニティが消失する。

例えば、都市が大きくなり過ぎれば、通勤・通学だけでなく何処に行くにも時間がかかり、移動の時間・経済・体力コストが限界を越えて増大する。今の日本で多くの大都市が、そうなりかけている。

前述した様に、都市の快適性、利便性は、階段やエレベータをおりると、歩ける範囲に、生活・仕事・趣味・出会いがあり、自由に取捨選択できることにある。

 

(日本の進むべき道)

 

最後に、今後日本の進むべき方向性に関して、私の考えを申し上げたい。

日本は太古の昔から、国外で生まれた“国家モデル”を上手く導入し、それまで有していた伝統と上手く折り合いをつけて、日本流のアプリケーションを書いて実践し成功してきた。

中国から仕入れた律令制国家がそうであるし、明治時代に導入した欧州型国民国家モデルのクリームスキミング(良いとこ取り)も、その典型である。フランスの貴族制度、中央集権型官僚制、イギリスの王室制、議会制民主主義、コモンロー、ドイツの憲法、数え挙げればきりがない。

しかし、先の大戦に敗れた日本は、占領国であるアメリカの言いなりになり、政治制度だけでなく、文化やものの考え方まで侵食されてきた。そして冷戦終結後、世界はアメリカの一人勝ちになり、ロシアや中国まで、一神教であるプロテスタント的アメリカ文明に呑み込まれつつある。

しかし文明論から言えば「新しい文明は常にペリフェリーから生まれる」のであり、別の言い方をすれば、異なる文明間のコンフリクト(葛藤)や、コントラデクション(矛盾)こそが、知恵を育み、新しいものの考え方=文明を創造するインフラストラクチャー(基盤)となるのである。

もし、世界中がグローバル化という名のアメリカニズムに席巻されたなら、新しい文明が創造される可能性は、ほとんど無くなる。それでは、アメリカ人自身にとっても大変不幸な結末になるだろう。

何故なら、実はアメリカ人やアメリカ自体が、複数の文明の間のたゆまない摩擦によって生まれ、変化し続ける存在だからである。

脱冷戦後何年かぶりに、アメリカも参加することになったパリのユネスコの幹部と議

論した時も、これからの地球社会の中で、如何にして文化の多様性を維持しつつ、人類全体が自然とも共生していけるパラダイムを創出するのかということが、21世紀最大の課題であるという点で、意見の一致を見た。

それ程、文化の多様性の保持は、現在危機に瀕している。例えば、現在世界に約6千あるといわれる言語は、このままいくと、今後数十年以内に数百に激減すると言われている。

何故ならば、コンピュータに乗らず、インターネットに乗らない言語は使われなくなり、次第に死語となっていくからである。

今のコンピュータ言語は、表音文字の英語と数字で書かれている。したがって表意文字の差異は、ユニコードによる転換では認識できず、死に絶えていくのである。

今、世界中の言語が、段々表音文字化し、人の思考の様式も、それに伴って表音文字的になり、画一化が進行している。これでは、文化の多様性は維持できない。人は言葉で“もの”を考える。

言葉が、デファクトとして一つの形式に統一されれば、それは人の思考の様式の多様性を阻害し、文化の多様性は維持できない。そのことは、“感性”の領域にもいえる。

何故ならば、私の行った感性情報学の研究結果でも明らかなように、母言語に違いにより、特に表意文字と表音文字を母言語とする人の間では、感性の傾向に著しい差異が見られるのである。

言語や文化の多様性を維持するために、取り敢えず現在のコンピュータ言語上運用するソースコードを、マルチコードにすることが、ひとつの方策だが、本源的には、日本と中国が共同で、表意文字の認識過程をベースにした次世代のコンピュータ言語を、デジタルアナログ融合思想のもと、まったく新しい符号化理論で創出することが必要であり、私はそれを強く提唱している。

私は今こそ日本が、アメリカ型でも、欧州型でも、中国型でもない、21世紀の国家モデルを創出すべきであると考えている。

日本は、言語的(日本語は世界でも珍しい表意文字と表音文字の併用言語である)にも、文明論的(日本ほど東洋と西洋の間で両者を融合した社会を作った国はない)にも、宗教的(日本には「日本教」があり、それはアニミズム、神道、儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教、その他幾多の宗教を融合し超越したものである)にも、経験的(部族社会、律令制国家、幕藩体制、欧州型国家、米国型政治)にも、地理的(東洋と西洋の間)にも、政治的にも、経済的にも、それをし得る素質や潜在的能力を持ち、今それをし得る歴史段階にあると思う。

日本は、自己の持つ潜在力を顕在化して、自らのいる歴史段階をはっきり認識し、その使命を果たさなくてはならない。この日本が、これから作り出すモデルが、他の地域でも通用し、西洋、東洋の壁を超えて、一神教、多神教の壁を超えて、表意文字言語圏、表音文字言語圏の差異を超越して、世界中で、多様性を保持しながら、相互通用性(コンパティビリティ)を保持し得ることを実証することによって、地球社会に新たなイデアを創出する。この使命を果たすことこそが日本の進むべき道であり、日本のでき得る最高で最大かつ究極の地球貢献であると信じている。

政治も経済も文化も芸術も宗教も福祉も、そして都市も住宅も、その究極の目的は、人を幸せにすることである。これらの全ては、そのために人間が創り出した概念であり社会的装置である。しかし今、それぞれが内部・外部で分極化し、対立し、自己目的化して、本来の目的を果たせなくなっている。それをもう一度、根本的なところから見直し、概念規定を改め、全ての要素が、全ての人の幸せの実現!という本来の目的のために統合的に運用できるようにすることが、人類社会の究極の命題である。しかし、これは、まさに言うは易し行うは難しである。私は志を共にする仲間と、この見果てぬ「夢」を実現するために生きたいと想う。

(了)