おはよう

 

 

 

メールを頂戴いたしました

 

はじめまして。いつもブログを拝見し、ご本も

読ませていただきました。
そこで、どうしても納得がいかない点があります。
それは、人はこの世での生を終えると、皆光の源

還るという点です。
この世において、いろいろな人がいます。

良い人、悪い人と単純に二分することはもちろん

できません。
ですが人を殺傷したような人、あるいは騙した

ような人が、正直に真面目に生きてきたような

人と同じ光の源に還るということがあって良いの

でしょうか。
仏教においても、因果応報という言葉がありま

す。人に投げつけたものは良いモノも悪いモノも

全て自分に返ってくるのがこの世の摂理ではな

でしょうか。
人には自由が与えられています。

どんな生き方をしようと人それぞれです。

ですが、自由と責任とは背中合わせでもありま

す。やりたい放題、したい放題、でも光の源に

還れますなんて、許されることではないように

思えます。
まさよ様のご本を読んで、疑問に思ったことを

率直に書いてみました。お気を悪くされたら申し

ありません。=

 

いえいえ、気を悪くなんてしないですよ笑う

 

どう思っても、何を思われても良いと思います

 

のでね。

 

Mさんや、他の人も同じように思われても

 

当たり前だと思います。

 

だってわたし達は、今を生きていますのでね、

 

人としてのルールがありますので、犯罪を犯した

 

ら、きとんと罪を償うべきだと思います。 

 

自分の大切な人を事故や、事件で亡くしては

 

憎んでも憎みきれないと思いますし、一生許せる

 

事では、ないと思います。

 

その為に法があり、わたし達は倫理の上に暮ら

 

していますね。

 

因果応報というのは、仏教の教えとなっては

 

おりますが、いろんな意味で、宗教において

 

都合のよい言葉だったと思います。

 

説明すると長くなりますのでね。

 

当たり前に思われている、因果応報と言うのは、

 

人が生きていく上で、人が作りだしたルールなの

 

です。

 

因果応報のもと、地獄が作り出されましたね

 

地獄も、人が作りだしたものなのです。

 

死んでなおも償う、地獄で苦しむ。

 

けれどもそのルールがあるのでね、わたしたちは

 

人としても自制心を持って暮らしているのも

 

事実だと思いますね。

 

 

悪い事をしたら、必ず自分に返ってくる。

 

けれどそう思うと、真面目に生きてきた何にも

 

悪い事をしていない善良な人が、事故や事件

 

戦争に巻き込まれて、お亡くなりになる事も

 

因果応報と考えますか? 

 

何故、あんなに良い人が、まだあんな幼子がと

 

思う人に、悪い理由が見つからないですね。

 

だから次は人は、過去世からの、先祖からの

 

因縁や、カルマじゃないかと理由付けをして

 

しまいますね。

 

生きているってことは、いろんな理由が欲しい

 

ものなのだなぁと、思います。

 

わたしたちは、法というルールを犯したなら

 

罪は生きているときに、償うものだと思います。

 

体があるうちに、きちんと反省して償う事だと

 

思うんですね。

 

けれど魂は、この世に自分のお役目で来ている

 

のでね。 

 

こういうと、誤解されるかもしれませんし語弊が

 

あるかも知れませんが、みんな、死ぬ為に生ま

 

れてきました。 ゴールはね、死なんです。

 

きっと、何をトンデモない事を言うんだ。

 

と非難されるかもしれませんが、その非難を

 

覚悟で、7年前にブログを立ち上げたのです。

 

災害や戦争や事件や事故や、何も罪もない方々

 

が、お亡くなりになることは、とても残酷で痛まし

 

い事だと思います。

 

けれど、魂でみるとどなたも立派に、お役目を

 

終えられたのです。

 

決して、罰や因果応報で、命を失った訳では

 

ないのです。

 

あの世には、もうイメージの姿しかありません。

 

それは、わたしたち生きている者のイメージの

 

姿なのです。

 

自分という魂も本当はないのでね、イメージの

 

姿に、仕打ちは出来ないのです。

 

わたし達は、亡くなる時に走馬灯のように

 

けれど一瞬で自分の過去を振り返ります。

 

それは自分の悪事を反省する為でも、心を

 

入れ替える為でもなくて、自分が誰だったかを

 

思い出す為に、人生を逆行してみるのです。

 

長くも短い一瞬の人生で、笑ったこと、怒ったこと

 

魂が震えたことを、懐かしく回想しながら自分を

 

思い出すのだそうです。

 

そうして自分が生まれていった時の、決意を

 

勇気を思い出すのです。 

 

それは今まで感動した事もないような、

 

生ききったという、やりきった達成感なのだ

 

そうです。

 

わたしはまだ死んでいませんのでね、本当の

 

達成感は味わっていませんが、姿のない光に、

 

魂の仕組みを、神を教えられた事の一つなの

 

でね。

 

あの世には、閻魔さまも誰も裁く者はいないの

 

です。

 

もしも人の命を奪ったのが、人ではなく天災で

 

水や、火が人の命を奪ったとしたら、誰を裁い

 

たらいいのでしょう? 誰が罪を償うのでしょう?

 

話を元に戻しましょうね。

 

>人には自由が与えられています。

>どんな生き方をしようと人それぞれです。

>ですが、自由と責任とは背中合わせでもあります。

 

生きている限り、人に自由はありません。

 

わたし達は、家族に会社に、いろんな事に

 

縛られて生きていますね。

 

人には、好き勝手していい自由なんてね

 

ないんです。

 

わたし達に与えられているのは、魂の自由

 

だけです。

 

いろんな事があるけれど、如何にこの世に身を

 

任せ、安らかに生きられるか、忘れていた頃に

 

自分の前に現れる死に対して、その時に、

 

如何に心穏やかに受け止め、過ごせるか

 

心の自由が、与えられているだけなのです。

 

 

長くブログを見て下さっている方は、きっと

 

わかって下さっている方も多いかと思うのでね。

 

また同じ話と、思われる方もいるかもしれません

 

が、どうぞ魂と、人として生きるルールと同じ

 

目線で考えないで下さいませ。 

 

悪人は地獄に落ちて、罰が当たって然るべきと

 

思うのは、人として当たり前なのでね。 

 

そう思うと、人としてね。 ”人として” 納得出来

 

ない事が多いのでね。

 

永遠と答えが出ない事と思いますね。

 

だけど今は人だから、人として真面目にみんな

 

生きているのでね、”悪人は罪人は地獄に

 

落ちろ” ”地獄で苦しめ”でいいんだと思います。

 

わたしも人なのでね、同じようにそう思います

 

もの笑う

 

みんな与えられた、僅かな命だから、だから

 

精一杯自分として真面目に、時に不真面目

 

に生きたいなぁと、おばちゃんのわたしは

 

そう思います。 

 

先日、沼に生えている蓮の実を一粒かっぱ

 

らって食べちゃったこと鼻

 

きっと幼い幼稚園児にとって、わたしは罪人に

 

なると思います。

 

けれど大人の中には、そうする理由があった

 

のだと、許して下さる人もいるかと思います。

 

罪の基準なんて、国によって、時代によって

 

その時々で、変わってしまうのかも知れません。

 

 

 

 

雨があがった仙台です。

 

昨日の夜、主人を駅まで送って行った帰り道。

 

小雨と外灯が、ぼんやりとした世界を

 

創り出していてね、なんて幻想的で美しい

 

のだろうと思いました笑う

 

この世界で、この日本で、この時代に

 

生まれてこれた事に、思わず感謝を致しました。

 

”ありがとう、わたしをありがとう” 

 

変な日本語だけど、いつも見えない存在に

 

そう伝える、わたしの精一杯の感謝の

 

言葉なんです笑う

 

 

わたしの今日を ありがとう

 

あなたの今日を ありがとう

 

大好きありがとう、感謝でいっぱい笑う

 

 

 

 

 

 

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