ブログを始めたばかりの頃、ネットで行われる意見交換は互いが持論に拘り、相手の意見を認めることは稀だから、基本はほどほどにだよ。と教えてくれた人がいた。もう13年前のことだ。その後、論破したとかいうのも見るようになった。素人の意見交換で論破もクソも無いようにその時も今も思う。日本国土は小さいので、狭い範囲で議論することが学問の世界でも仄聞したことがある。そんな尺度は世界では違うところもあるようで、ドイツの歴史の本を読んでいて、ある川のこちらとあちらの話が書いてあり、日本だと何キロのことだけど50~130キロの範囲のことだった。だいたい日本のように水のそばに住み稲作を営んできた民族と、広い土地にまばらに人が存在し、狩りで移動していくのが基本だった民族とは、ものの尺度が違うようだった。そんなことから、ドイツ観念論という哲学の抽象度がやたらに高いものであることが納得がいった。大きくものの存在とはどのようなものか?と捉える考え方よりも、八百万の神という風に具体の中で捉えようとする日本のものの掴み方は違う。H市にある軽自動車の会社の製品が海外の自動車製造に関わる人から見ると精密機械のように見えると聞いたことがある。あのサイズに3ナンバーの車に搭載されている機能を組み込むことは確かに精密機械となるだろう。あれはアメリカ人には浮かばない製造品だ。
そんなわけで国民性は色々な場面で見る機会がある。それをこれからも突き詰めて行く方向か大きくコンセプト作りをし、そのコンセプトが一貫してあるが、大胆な展開を生むものの考え方を志向していくのか、停滞する国力を変えることは国民性の見直しが必要なのかもしれない。