書くことを切ってはいけないと教わった。(研究者の場合は、発表する場が与えられていなくても、論文は書き続けなければ、その質は下がるものらしい)よくネットで、定型文でいつも書いている人がいる。こういう人の書き方は、まるで内容がない。大概下らないネットビジネスをやり始めて、なんでもない私もこんな風に稼いでいます。とかいうのがそれである。文章を書き続けていくには、飽きてはダメで、何を書くかを意識することを続け、何回書いても下手くそなことに嫌になろうと続けなければならない。それを定型文で済ませるようでは、よほどのバカでなければ読んではもらえない。そんなこといわれても、やれないと思うことは普通である。現にある水準のことを書くことなくやめてしまうか、頭のお里が知れることを断片として書くくらいのものである。

 

上手く書けるようにならなくても、書いてあるものを読むことは上達する。それが誰にでも与えられる書くことの効用である。三島由紀夫の「小説とはなにか」で柳田国男の遠野物語にある文章で小説の解説をしている。おばあさんが亡くなり、夜伽で皆が集まる場に亡くなったおばあさんが現れ、人の間を歩き服の裾が炭取りに触れ、丸い炭取りがくるくる回った、というのを言葉の力だけで現実にしてしまう文章の力を教えている。死んだ人が現れただけではなく人の間を歩き、服の裾が炭取りに触れくるくる回った、こりゃー怖い、くるくる回った、う~ん文章の力はすごいなぁと私は読んだ時に思った。書けないが読み取れる。書いていればその書かれていることが自分には到底書けないが読み取ることは出来る…。

 

そういうわけで書き続けていくことは豊かに読むことと繋がるものなので、飽きないで書き続けましよう。

 

PS:この亡くなったおばあさんの話を読んで、新井白石の「鬼神論」を読んだ。( 鬼神(霊魂)の存在を積極的に論じた書として知られ、 史書のみならずいわゆる俗書からも多くの話柄を引用し鬼神の存在を積極的に論じている)この本には輪廻について博学な知識で書かれている。しかし、私の浅学では簡単にまとめられない。間違いないことは白石が論理主義者、主知主義者という評価とは違うところも強くあるということだ。またの機会に書いてみたい。