ことばをたくさん知っていても作家にはなれないという単純な話を、小説を書いて直木賞をとり、受賞作品が売れ、さらにテレビドラマになり…という夢を語った職員がいた時に話をしたことがある。本人は自信満々の書いたものを読んだら、中学生の作文だった。確かに、あまりお目にかかることのない漢字や単語がふんだんにあり、私は辞書を読んだメモだと思ったくらいだった。

 

小説は、こういう言い方をすると怒る人がいるのだけど、余分なものなんだと思う。余分ではないものは、作品にならないし賞ももらえない。余分なものは、その余分さで価値があるのだと思う。それが、辞書を読んでメモしたような当人以外には、バラバラなものでしかないのに、浅い知識でゴミ屋敷ではないと勘違いしている余分ではダメだ。余分なんだが、書いた人の読んでもらいたいということを伝えるために飾りをいれて書いたものが余分な書物ではないか?さらに、読んでもらうにはドンドン先へ読んでいける調子も必須である。人の存在は、人を包んでいる風景がある。風景がない心理を書いたものは大概つまらない。なので情景描写は小説ならなくてはならないもので、それをどう書くか?どう風景の場面を作品に入れ込むか…。そんな話を職員にしたら。えー。そんなにめんどくさいもんなんですか?小説って?というので、あんまり才能はないみたいだから他のもので世に出ることをやった方がいいように思うとだけ答えた。

 

…その子は、商売は上手でいいとこの御曹司と結婚し事務所を辞めた。私は、少し彼女の人生で役に立てたと思った記憶である。