文学の全集本や、古典の新たな研究成果を反映させた古典全集は、もう半端な形でしか出版されることはないだろうと予想する。そうすると、使われる日本語は蓄積のない使われているというだけの言葉になっていく…。前に、国語辞典は日本語コーパスを全面的に採用するものがいいと書いたのもそういう時代背景からだ。国語辞典については、詳しくないのだけど、多数出版されている中で何が違うのか?それは、どのような見出し項目(辞書で項目として出し、太字などで見やすくし、一定の順序に配列した語)を選んだか、だけのような気がする。各国語辞典でその選択が大きく違うことはない。小型辞書であれば学校の指導要領に沿ったものが基準としてあり、そこは手を付けないで編纂されていく。だから言海のような辞書は現在存在しない。そして、言海を自在に読める人も少ない。(周りを見ても、言海についての言説を行う人たちはpedanticな人が多いように思う。無論、例外はあることは断りを入れておく)

 

明治から今まで、日本語の文章とそのスタイルをつくってきたのは作家であり、その過程で新たな語彙を与え意味の拡張もしてきた。それは日中の古典をよく読み、海外の文学の影響も受けてである。作家の一つ一つの作品を読むことで、使われている単語から各作家の文体までいくつもの多様な日本語を知る尺度になってきた。

 

これからは、日本語がどうなっていくのかはわからないが、まずは辞書の前に作品を多数読むことで日本語を大切にしていきたい。人の出来ることは一生でみればあまりに少ないものである…)