彼はぶれないからいいと言う人がいるけど、こんなに世の中複雑になり、取り扱い注意のデバイスを誰もが持ち、何を言われるのか、そして許可なく画像を公開出来る環境でぶれない政治家って、民の要望やこれからの社会問題に対応できるのか?とっても疑問がある。

 

・既得権益をぶち壊す。

・古臭いやり方で進められる議会運営を、根本から変える。

・政治家の特権を取り上げ議員の数を減らす。

 

私は、そういうことが民の全く知らない間に内緒ですべて決められたとは思えない。政治に参加しないことを結果として選び、いろいろなものが作られてきたのでは?知らなかった、というのは誰の責任になるのだろう?頭の悪い政治家でもまぁいいやとしてきたことの弊害は誰が責任をとらなくてはならないのだろう?

 

本当は、誰もが自分自身へ大きな影響を与えられる政策については、納得ずくで決めることを選ばなければいけなかった。多くの人たちが参加し決め事をするのは、ものすごいエネルギーが必要になる。利害関係の調整と、そもそもあまり文書を読まない人たち相手に理解してもらい納得してもらう為にはブレブレな連続になることだろう。しかし、そのブレたことを言うことが、話が違うという理解ではなく、ああそうかあの人たちにも納得してもらうために妥協したのか。でも、やることの根本は最初から動いていないということが、明日への希望があるのではないか?明日は今日よりも、ほんの少しも良いとはいえないけど良くなる方向へ舵は切られたという思いを民に与える政治家がいれば、いつ終わるともしれない問題群の解決にもういいよ、と投げやりな気持ちにならないでいれるのではないか?

 

丸山眞男がこんなことを残している。

 

”「俺はコーヒーがすきだという主張と俺は紅茶がすきだという主張との間にはコーヒーと紅茶の優劣についてのディスカッションが成立する余地はない。論争がしばしば無意味で不毛なのは、論争者がただもっともらしいレトリックで自己の嗜好を相互にぶつけ合っているからである。自己内対話は、自分のきらいなものを自分の精神のなかに位置づけ、あたかもそれがすきであるかのような自分を想定し、その立場に立って自然的自我と対話することである。他在において認識するとはそういうことだ。」(自己内対話 p.252)”

 

”「諸君がこれから世の中に出ていろいろ苦境に陥ることが公私ともにあると思うのです。その際、これは福沢がいっていることなんですが、「大事に面したときには、逆にそれを小事と考えて軽く決断せよ」といっているのは面白い意見です。つまり、その事が死ぬか生きるかというような大変なことのように思われても、もう十年か二十年経って考えると、きわめて事理明白で簡単なことで、どうしてあんなにキリキリ舞いしたのか分らないというような事が多いでしょう。いわばそういう時間的な距離を意識的に設定すれば決断が容易にでき、またあまり誤らないものです。空間的な距離、例えばイギリスならイギリスから今の状況を見たらどうだろうかなという風に考えてもいいわけです。要するに自分を自分の場所から隔離してみるのです。むろんこれも現実には仲々むずかしいが、少なくもそういう心構えを持っていると、気が楽になり、冷静な判断が出来易いことは確かでしょう。(丸山眞男集 別集2 丸山先生に聞く pp165-166)

 

そろそろ無責任に任せることは終わりにしないといけないのかもしれない。