直接触れることや見て体で感じ ることが少なくなっていることが気になる。
情報ということから言えば、すぐにデジタル断片はかなりの量集まるが、ことに向かい合うことで得られる感覚はそこにない。私はアナログなので、はっきりしたものばかりだと、量はあれども精神の練磨が足りないような気がしてる。
こういう話は、ねっとりする湿気と肌を刺す光の季節には向かないことは承知の上で続ければ、眠ってしまっているものをある人の文章を読むとシャキとする効用があり、そのことは文学が役に立つと言えるものだろう。もともと、映像がどれだけ鮮明で綺麗であっても、文章を無駄に彫刻したものの方が好きで、それは三島のように過度に(衰弱し)修飾されたものであれ、谷崎のああ谷崎だという文章でも流麗な太宰のものでも、丸谷才一のエッセーの衒学さでも片岡義男と富岡多恵子の乾いた日本語でも、作者の書く行為から生まれるものなら傾向も何もどうでもよく、心にも体にも響いてくる。
汗をかくようになったから生き物の生が立ち上がったのか、雨が上がり夏の日差しが体にあたり脳に刺激があったのか…。