ネットの騒ぎで被害にあった人たちの記事を新聞で見ると、それらを肯定する意味ではなく、もう少し人のあり方として深い部分を書いていると思う文章がある。それは、こんなのだ。

 

近ごろ、放送コードとかいって、汚い言葉や差別用語を使うことを禁止するようになりましたが、私は残念でなりません。人間が生きてゆくためには、きれいごとだけですむわけがありません。みっともない言葉、卑しいやりとり、うす汚いせりふ、人を見下し、バカにした考えのない人間がいたらそれこそ(不倶)です。この言葉も使ってはいけないのですが、こういう取り決めがどれほど日本のテレビドラマを子供っぽく貧しくしていることか。私は「馬鹿」というせりふが放送禁止になったら、テレビドラマを書くのはやめようと、これは本気で考えています。引用は、向田邦子全集新版11巻pp198~199文藝春秋2010

 

このエッセイは昭和54年に書かれたものなので、45年も前のものだ。私にはそんな昔であるようには思えなく、どちらかというとネットのうんざりする言説は、半世紀前から人ってアホな存在なのよ、それは間違いないと教えてくれた気がする。人の進歩はイデオロギーで変わるものでもないわけで、人の性(さが)はとても根深く特別に太い。そのことをまず認めることは、そういう言葉を使うなという次元ではないような気がする。初めに書いたようにネットでの言説を肯定する気はない。しかし、言葉を使うことを仕事にしている作家は、使う言葉の検閲は大嫌いなことは知っておいた方が良い。私もそのことには同意である。

 

散らかさないようにしたいと注意している。散らかすのは、頭の中のものについてだ。中古の古文と漢文は近い関係にあるので、大盛りの丼飯を食べるようにしても腹はこわさない。このことについて頭の中は破綻しないが、現代の事柄に結びつけて役に立てるなんてことをすると途端に散らかる。頭の中のメモリーが足りないからだろう。だから、系統でグループ分けしフォルダーをつくりそこにファイルを入れるようにしないと散らかる。私は芥川と太宰が好きだが同じフォルダーには入れられない。同じ文学ではないかと言ってもダメだ。そんなわけで散らかしてしまうと頭の中がグチャグチャになる人は学者のようなことを話せないし書けない。

 

私が学者が好きなのは、自分では出来ないことをやれる人だからのようだ。そして人の才能についての評価は自分が頭が悪いのでかなり正確に判定できる。口には出せないから、独りああやっぱり、なんてなにかの報道から納得することがある。

枕草子なら込み入った部分でもどうにかなるだろうと、あるネットでの枕草子についてのやりとりを見ていた。途中から、よく勉強している側が、ほんのちょっとしたことから揚げ足を相手側たち(1人対多数でやってた)から指摘され、まぁ比喩は適切ではないことを承知で使えば、昔一般人とヤ◯ザの揉め事を見ていた時と同じことが行われ、ちゃんと揚げ足を取られたことへ釈明をしたのにも関わらず、本筋からどんどん外れ面白がって入ってくる人への導火線に火がついた。知らないことの無敵さを気にもしない人たちは、とても強い。ロクに本文を正確に読めないレベルの人たちなので、相手はわざわざ品詞分解して現代語訳をしてくれているのに!こういうことを続けても時間の無駄だなーと思い見るのをやめた。

 

難しいことを難しいままに語らないレベルの人が、無知なーNHKの大河ドラマが史実に忠実だと思ってる人たちーであることを自覚していない人たちとはやりとりが上手く行かない。途中から遊びで焚きつける人も入り、NHKの大河ドラマは罪なものだと知った。(故萩谷朴先生が見たら怒り心頭に発す事請け合いのやりとりだった)

 

 

 

 

 

が一政党で決まっただけなのに株価が動いている。これから政治をやるのに、金・金・金の話ばかり。そして増税。イデオロギーが関係ないのが金に関することで政治家・政党が何をやったかの前に文句ばかり言う。これでは政治家になろうとする優秀な人が避けるわけである。金に最大の価値を持つ自分に対して正直なのはわかるが、こんな調子で支持率がどうたらいわれても明日の朝までいってろ、と私なら言う。(どんなに間違えてもその責任を問われないで、言い訳で済む評論家という職業は、社会に存在する意味があるのだろうか?私は評論した内容の適否でギャラを歩合制にし、メディアは支払う契約に変えてはどうかと思う。適当な話は蜘蛛の子を散らすようになくなり、面白くも何とも無い話ばかりになることだろうけど…)

 

どう期待しても、新しく就いた政治家が、そんなに大きく変わらないで、治さなければならないことを、ホンの少しだけ出来るのが関の山ではないか?そういう社会にしたのは政治家だけが悪いわけではなく、国民の多くも含まれるではないか?問題が大きすぎることなのに片方だけ悪いだけで済むわけがないのだから…。

この作品を読むために、古今和歌集を読まなくてはならなくなり、根を詰めて読んでみたら面白い。そして中古文学の視野が広がり、数ヶ月前から止まっていた伊勢物語に戻り、なるほどと理解が出来る部分が多くなった。というのをこの1年半くらい続けている。このくらい時間をかけるとようやく古典の何たるかが近づいたような気がするから不思議である。(それは中国の文学にも接点があるからずっと読むことは続く)

 

そんなのんびりと時間が流れていく読み方をしていると現代文学やテレビなどは見る時間がない。夜半、お腹がすいてバゲットを切り、クノールのスープデリ「サーモンとほうれん草のクリームスープパスタ」にバゲットをいれ、コーヒーを飲み、食べ、少しぼーとして読んだ箇所を頭の中で思い出していると、自然に色々なことが頭の中に浮かぶ。そんなことをして、夜が少し涼しくなり、風が強めに吹く外を眺めて過ごす時間はいいものだ。現代小説やテレビの即物的な刺激は、本来誰にとっても日常生活のストレスがあるから存在出来ているように思っている。また、知識を必要であるものとしてではなく、楽しく読むためのものとして学ぶことはそんなに難しいことではない。そんなことを知らないからか食わず嫌いで古典を読まないのだろうけど、刺激の質が違い、静かに息をすることで楽しめるものもある。知識は楽しめるものを広げられるからあるもので、資格を得るためのものは、人が求めるものとは関係ないところにある。AIが発達しそのことは誰でも分かるようになったと思ってるけどトンチンカンなことを言っている人も多く、生き物としての人の再発見が必要だといいたい。