自分に正直であること。

自分に嘘をつかないこと。

 

それが私にとっては一番難しかったことだけど

今一番大切にしていること。

 

 

 

それをわからせてもらったのは

ある方との仲違いからだった。

 

 

思っていることを伝えあいたい。

ザワザワして仕方がない。

何がこんなに引っかかるんだろう。

 

自分の内側に問い合わせる日々。

 

 

でも、そのうえで、お相手とも話をして

対話をしないと進まない。

そう感じて対話の時間をいただいた。

 

話をしていく中で

自分が感じたことをまた伝える。

 

それを伝えるけれど

最終結論の真理を伝えられてつらかった。

自己責任論を語られてグウの音も出なかった。

 

100でぶつかったら

きれいな答えが5で返ってきた、

そんな感じだった。

 

 

 

正しい。

絶対的に正しい。

そう感じた。

 

それを私はわかっていたけど

頭でわかっているけど

内側がザワザワしたから対話したかったのに

それを受け取ってもらえなかったと感じた。

 

言葉の定義や

物事の価値観の違いを感じて

そのすり合わせをしたいと思った。

 

でも、それは必要とは感じてもらえなかった。

 

 

この時の私は寂しさや悲しみが溢れていて

やっぱり私は孤独なのだと

だれも私をわかってなんてくれないんだと

幼少期から感じていた孤独感をまた感じて、

どうせ人は口だけだし、

私を知りたいと思ってくれる人なんて

夫や子供くらいしかいないんだろうと思った。

 

 

 

でも、今になってわかるのは、

この時、人間不信気味になったことで、

本当に自分の内側に戻ることができた。

 

自分はなんでこんなに寂しいのか。

どうしていつも孤独を感じるのか。

 

母との関係性もとことん感じて

できることをしていった。

 

結局行きついたのは、

まだ私は自分を出すことができていなかったということ。

自分のことをもっともっと

理解してほしい!!と内側から自分が自分に向かって叫んでたってこと。
 

 

他人を通して、

自分をそのまんま見せていただいていたんだと今はわかる。

 

 

 

私はなにを大切にしたいのか。

どこに怒りを覚えるのか。

どうして寂しく感じるのか。

 

いつも伝えていることだけど、

感情をとことん感じて

寄り添って

自分を感じていく。

 

どうしたかったんだろう。

どうしてほしかったんだろう。

主観的に見ていく。

 

 

 

 

距離ができたからこそ

自分自身にとことん向き合い、

自分と話し合うことができた。

 

 

その中でどうしたかったのか、

できることはしてみた。

自分はこう思っていると伝える。

あなたの感覚を知りたいので話がしたいと伝える。

 

 

そして、

客観的にもみてみる。

 

時間がかかったけど

やっぱり世界は鏡で、私がしていることを

相手がして見せてくれたのだと痛いほどわかった。

 

 

 

きれいにまとめて5で出す。

 

これが自分のしていることだと感じられたのは、

また全く別の人から与えてもらった話から。

ギフトに感謝。

 

 

あんな傷つくことを無意識でしてるのか…

今すぐにやめようと思った。

 

結論がほしいんじゃない。

寄り添ってほしい、そういう時があるんだ。

でもできないことがある…そこはジレンマを抱えている。

質と関わる部分。

説明が必要。

 

 

傷つくときは気づくときって、

これはホントだと思う。

 

今回のは痛すぎたなぁ…。

 

 

 

 

 

世の中の人が

まぁ仕方がないって諦めて

傷つくことを避けるために

成長の機会を失っていくのも、

今回ばかりは少しわかった気がした。 

 

 

 

 でも、でも、

「わたし」と深く深くつながっている人が増えたらいいなと思う。

 

 

自分を愛おしく感じられる人がもっと増えたらいい。

 

内外一致して生きられるひと

命を悦べるひと

そんな人が増えたらいいなって思う。

 

 

そうしたら、すごく人生豊かになるよって伝えたい。



その道のりがラクな人もいるだろうし

なかなか大変な道のりの人もいるだろうけど、

そのお手伝いしたい!て思ってる。


誰かの命が悦ぶ、そんなお手伝いができるなんて、そんな幸せなことってない。



 

 

自分の深い望みを叶えていく人生になったら

本当に幸せなんだよって、伝えたい。

 

 

 

そして、

ハートからの対話ができる人と集いたい。

 

安心して、私はこう思うのって

開ける場所や、表現してみることができる場所。

 

 

 

 

 

尊重し合い

違いを認め

共に必要な時に支え合える人たちに。

 

 

そこには区別や分類はいらない

 

好き嫌いでいい

自由がいい

 

 

いろんな感情を共に味わい楽しみながら

命を悦ぶ仲間がつくりたい。


 

 

ラベリング

分けること

段差をつける

区別する


そういうことが心の底から苦手です。


それは、小さな時からそうで。

差別とかに関してもとことん疑問に思ってた。

差別について、めちゃくちゃ大人に聞いてた。


どうしてそんなに悪くいうの?

何がそんなに嫌がる理由なの?

何かされたことがあるの?

あなたはどう思うの?

あなただったらどうするの?



疑問しかなかった。

小学生低学年の頃からだったけど、

大人ってズレてるんだなって思ってた。


言ってることはどこかの誰かが言ってることで、

そこには本人の体験なんてなくて、

人から聞いた話ばっかり。


内容も矛盾してるのに

なのに、こんなに語気を強めて主張できる道理が分からない…「そーいうもんだ」とまとめる大人が本気でバカだなと思ってた。


それ、保身だろうし、世間体からきてるよね?

「そーいうもんだ」で納得すると思ったんだろうか?その対応された時点で、心が離れそうになる。


大人を心底バカにしてた。

大人って弱いんだなーって、バカにしてた。

何も考えないんだなーって、哀れんでた。




少し年を重ねて

中学生とか高校生とかになると、

その裏の本質には、一概に言えない、お金や利権の問題があることも見えてきて。

なるほど、ひねくれてるモノが加わってるから、問題が簡単に解決しなくなるのかって。

めんどくさいなーと思ってた。


正義感をふりまくことが

問題を逆に作ることもあるってことも感じたりしてた。


そしてわたしだけの事実がほしくて

体験したくて触れたくて。


ご縁でしかなかったけど、

部落といわれる地域で生まれ育った方とか、

ホームレスの方とか、

右翼て言われてた方とか、

なんというか、

世間から嫌われてた人たちに関わる機会があって。


望んでたからそういうご縁があったのか、

正直わからないけど


人として関わる上で

何も変なことってなかったし

人が言うような怖いことなんてなかったし


見た目?とか、身なりとか、

そういう部分は確かに一般的ではない人もいたけど、


みんな普通に「人」で、

弱さも強さも持ってる「人」で、

どちらかというと、こう言う方々との方が、

まっすぐに語り合えたり、嘘がなかったり、矛盾してなかったりした。


社会に多い

「そーゆーものなの!」とか

「とにかくキマリだから」みたいな

何も受け付けてもらえないとか、

全てひっくり返されたりするようなことはなくて。


たてまえとかもないし、

裏表がなくて話が早い。


人と人として対峙させてもらえたなという経験を私はした。



なので、私の中での結論は、

そういう枠にはめる行為そのものに憤るというか、そう見るとそうなるの世界だし、そうしたのって周りの責任もあるんじゃない?て思ったりもするし、


その人そのものに何も聞きもしないで

どうして人は簡単にレッテル貼るんだろうって。

自分で経験してみてないのに、どうして決めつけるんだろうって。


本当に自分が経験して怖い目にあったなら

人に言うのもわかるんだけど…


何で人は、人の話を「本当かな?」って思わないんだろ…鵜呑みにして、オマケつけて次に渡していくんだろ…。


この辺りの大衆の心境が、わたしには、本当に全く理解できなくて、だから、群れられなくて、基本的にずっと孤独感が友達。


話がそれる…。笑



人がそこに生まれてるってことはさ、

命があるってことはさ

その人の輝きがそこにあるってことで、


その人の命が振動してて

今生きてるってことで


その人の背後には

遡ると数えきれないほどの

ご先祖様がいらっしゃって、

その方々の想い、願い、希望、いろんなものが

DNAに集約されて今ココに生きてて。



それをどうして

分けて

区別して

色づけして

見るんだろうって。



自分自身が、それを貼り付けてた方がラクなんだったら、私は別にいいと思うよ、その人の選択だから。生きやすく生きるのは大切よ。


でも本人希望してないのに

システム的に合理的に便宜的に

分類してるのって

腹が立つんだよね。

悲しくなる。



こんなこと書いてて、

じゃあわたしの中に全く差別や区別の想いが芽生えないかっていったら、そんなことはなくて。


残念ながら生まれる。


それはDNAにあるからなのか、

周りの影響かわからないけど

でも、そんな自分を感じたら、

嫌で、嫌でたまらなくなるから、

もっと知りたいと思う。


無意識に差別してしまってた対象を

知りたいと思う。

知らないって不安だし怖さにつながるから。


調べたり、会えるなら会ったりする。

聞きたいことがあったらきく。


その時に、自分が感じたことが全て。




私のことを

なんでも受け入れてくれそうとか

どんな意見もジャッジしないで聴いてもらえそうとか言ってもらうことがあるのは、


こういう私のベースがあると思う。



知りたい。

触れたい。

体験したい。

疑似体験したい。


揺れた感情や

うまれる直感に忠実に、

でも何かわだかまりを感じたら

聞きに行く。触れにいく。調べに行く。


そこで感じたことがデータになって私の中に蓄積していく。それぞれの方々のそれぞれの人生が、本当に豊かだなと思う。



だから、

まとめてくれるな。


そうでなくても日本人は見えないものを尊重して空気が読めたりするのだから。


そして、締め付けるから

溢れ出したくなる部分もあるんだよね…


ゆとりを持ってそれぞれに個別対応できるくらい、もっと日本人が丸くなれたらいいなー。



個々のユニークさがあって

本当にそれぞれが美しい命の持ち主。

私は全ての方と

いち人間同士、そのスタンスで対話を続けたい。




こんにちは。

ラマトの森 山本陽子です。


はぁぁぁーーー…

ちょっと今日は、内面ダダ漏れ記事…かも。


みなさま、親という生き物は、

こんな気持ちで子どもの成長を見守るのですね。

先輩の親御さん方には尊敬の念しかございません。


うちの母や父も、こんな気持ちだったのだろうか…本気であの頃を思い出しながら、私の当時の記憶と、想像してみる両親の気持ちと当時してくれた対応、照らし合わせてみる必要がある…。




すんごいざわつくし

すんごい試されてる感じ。



わたし、子育てを通して

自分の心が癒されたなーと感じていまして、

子どもっていう宇宙人みたいな人たちと関わる中で、

自分の価値観とか、忍耐力とか、

その他もろもろすごく広げてもらったし

鍛えてもらったなーと感謝しているんです。


本気で、産まれた瞬間から今もなお

子どもたちが私の先生だと思ってます。




以前、長男に彼女ができた!?みたいな記事を書いたのですが、その続きが、何ともざわつくのですーーーえーんえーんえーん


見たくないものがみえたり、

感じたくないのになんとなく感じたりする、


そして、たまにツイッターのツイートが目についたりもする、


息子の不必要な発言とか、


やめてーーそんな発言やめてーーー

私の大嫌いなたぐいの発言。

いやーやめてーー男が下がるーー


て、泣きたくなるようなこととかショボーン




私、自分で言うのはおかしいかもだけど、

感情はかなり豊かな人間で、

かつ、こういうの好きこういうの嫌いがハッキリある。


でも、

こういうことに気づいたり

イラっとしても

気づいていないふりをしてみたり。

平静を装ってみたり。


そんな自分に笑えたり。



難しいラインですね…

親ってすごいなーーー。

子離れってこんな感じで進むのかーー。











いかんいかん。

こういう、人間の感情にズボリとひきづり込まれるような出来事。


どこまでも妄想したり、

感情の海で溺れそうになれる。



両親がしてくれたことなども、照らし合わせてみるなんて、え?必要??

感謝することは照らし合わせるまでもなくできるしさ、必要ないなーー。









やーーーーめーーーーたーーーー。






あぶない。あぶない。

危ないところだった。



私が見たこと、感じたこと、

思ったこと、どうしても伝えたいことは、

すぐ真っ直ぐに彼に伝えたらいい。

それだけだ。


彼がどう言うかも、ただ真っ直ぐに聴くだけだ。




それでいい。


わたし、こんなに感じるんだなーって

そう思って。

それでいい。




頭の中だけでこねくりまわして

何とか終わらせようとするこの癖、

まだまだ抜けてないな。


でも、気づくのはだいぶ早くなってる。




いい人ぶる必要ない。

感じたことを伝える。

もちろん尊厳を損なうようなことは

相手が誰であっても口にしない。


でも、ありのまま。


感じたことを

自分自身が感じた後に

相手に伝える。




そうそう、それでいい。


良かった。きづけて。




こうやって、日々、まぁまぁ丁寧に

自分の内側の動きもキャッチするし、

相手との対話も繰り返す。



相手にも、自分の内側を伝えてもらえるように。

そのための日々の関係性も大切ね。



コツコツだけど

ひとりの人間として

対等に子どもたちとも付き合いたいから。


いつわらない。


真っ直ぐにかかわりを続けていきます。









ある日の光景。

咳を理由に学校をサボった娘を連れて

県北までドライブし、

道の駅で友人と合流して語り合う。


フルーツ購入。

お店の方が洗って下さったおかげで

ピクニックで美味しいマスカット

すぐにいただけましたハート



感謝する

感謝がわきあがる

 

そんな境地で在ることが

なによりも大切なことなんだと

そういろんな所で聞いてきました。

 

 

少し前まで、

私はこの部分がよく分からなかった。

 

「感謝しなさい。」

「感謝が足りないよ。」

そう言われることがあると

 

そんな時には決まって

 

しなさいと言われてできるものではないだろう。

という感情が浮かんできていました。

 

感謝は沸き上がるものだ。

そう思っていたんです。

 

 

感謝が足りない、

それは自分でもわかっているけれど、

無理に感謝しようと思い込むことの

その意味ってなんだろう。

 

そんな風に感じていたんです。

 

 

 

 

〇〇しなさい

そう言われると、したくなくなるのが人間で。

 

 

 

あなたには〇〇が足りていません、

そう言われると、

ない部分にフォーカスされたことが

寂しく感じたり。

 

 

天邪鬼なんですね…きっと私。

 

 

でもね、その天邪鬼を正当化したかったわけではなくてね、

 

どうしたら感謝っていう気持ちがもてれるだろう

 

どうしたら感謝が勝手に湧いてくるだろうと

ずっと考えていました。

 

足りていないと思わされている時点で、

気づかなきゃいけなかったんですけどもw

 

 

 

 

人との出会いの中で、

ハッと気づかせていただく機会がありました。

 

ある方とのお話の中で、

もうお一方、

その方が尊敬する方の在り方のお話を

聴かせてくださったことがありました。

 

そのお話を伺っていると、

本当に不思議なんですが、

私の「感謝」という部分に触れるんですね。

 

 

感謝することに関するお話ではなかったんですよ、

でも、感謝が湧き上がってきたんです。

 

そんな貴重なお話を聞かせていただけていることへの感謝や、

一生懸命に自分を生きている、その「今」を話してくださることへの感謝。

 

 

 

今書きながら思い出していて気付くのは、

 

私に話をしてくださった方が、

その方が尊敬する方に対しての

感謝の気持ちをとても瑞々しく持っていらっしゃったこと。

 

その純粋な気持ちから波及して、

生活の中で、あらゆる物に感謝して生活をされていること。

 

それが、本当に感覚として私に伝わってきたんです。

 

 

 

その時に、バチンと私の中で、

「感謝する」ということが

感覚としてダウンロードされたのを感じました。

 

 

その時の話のベースとなっていたのは、

 

自分自身のまんまを受け入れるということ。

自分を深く愛すということ。

自分を大切に扱うということ。

 

そこから、自分を大切にすることができるということは、

必然的に、周囲にいてくださる、

自分を大切にしてくださる仲間や先輩方のことも

大切にできるということであり、

その循環が始まると、

それはそれはありがたく美しい

感謝の循環が始まるのだということ。

 

言葉の端々から、

そしてその方の在り方の節々から

「感謝」というものを感じさせていただきました。

 

 

 

在り方は

その方の態度や言葉に現れます。

 

それらは、本当に山ほどの情報を含んでいて、

感覚で捉える方はそれらをキャッチしています。

 

言葉と、

そこにのるエネルギーに

違いがあれば、

その違和感は不信感となり、

心地が悪いので近寄りたくないという選択になります。

 

 

それは、そういう「在り方」を大切にする人、

エネルギーを大切にする人にとっては

当たり前な感覚ですが、

 

 

それらのエネルギーが食い違っていても

特に何ともなくその場限りの対応をして過ごせる人も

もちろん社会には多くいらっしゃって、

そのような方にとっては

矛盾や違和感を感じることもない、

取るに足らないことのようです。

 

 

きっと在り方ではなく、

対応なのかなと感じます。

 

 

でも、対応も積み重ねて習慣となれば

いつしか在り方になるのかもしれません。

 

 

良い悪いではなく、

 

どちらが自分がラクなのか。

どちらの方が自然と動けるのか。

 

「合う」「しっくりくる」ということは

重要な判断ポイントではないでしょうか。

 

 

 

 

経験したことのないことって

誰でも不安になりますね。

 

それは仕方のないことだと思います。

 

でも、その中でも、

自分の身体をどれだけ信じてやれるかは、

普段からどんな生活を送り、

自分との信頼関係がどのくらい

構築されているかだと

そう感じたコロナ体験でした。

 

 

 

コロナであっても、

別の病気であっても、

子どもたちの感覚を育ててやれていたことは

本当によかったです。

 

 

病気ってどういうことなのか、

身体がどんな風に伝えてるのか、

その時々の違和感や、

自分の体の感覚や

気持ちの変化を

自分で捉えられること。

そして、必要であれば周囲に

自分の言葉で伝えられること。

 

 

小さな時から、

いろんな言葉やジェスチャーで、

子どもたちと対話してきました。

 

本人の言葉で伝えてもらうように

親である私が決めつけることのないように

丁寧に、根気強く対話してきました。

 

 

それが、ちゃんと育ってる。

 

とても安心しています。

 

 

 

 

薬にしてもそう。

薬ってどういうものなのか。

必要なのか?

どんな時に自分は薬を飲むのか。

その辺りも対話をしながら

本人の選択も尊重するということ。

 

 

 

 

食養生についても。

ここは、まだ私の勉強の余地がある分野ですが、

口にしたもので私たちの身体は作られているということ。

 

今身体が求めているものは何か。

最近の自分の生活を振り返ってみてどうだったか。

 

 

 

薬も食べ物も生活も。

何をどう選択するのか。

意識や理論と、

自分の体感覚とのバランス。

 

 

 

うまくいかないこともあるけど、

知っててもできないこともあるけど、

 

でも知って、

一度でも自分で考えてみたり

試してみて

失敗もしながら

自分で感じたことがあると断然違います。

 

 

 

 

未知のウイルス、

もちろんドキドキしたけど

私も子どもたちも、

慎重に感じて考えながら

すごしました。

 

 

その結果、

自分の感覚を信じられてること。

 

課題もおそらくそれぞれに

感じたと思います。

 

 

 

それは大きなギフトだったなと感じました。

 

 

こどもも大人も

それぞれに、思う所や、理想があることもわかり、

これまた愛おしくなりました目がハート飛び出すハート

 

身体とつながってるの、大切だねピンクハート

 

 

対話、大切だねピンクハート

 

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新鮮な果物や野菜を

こんなにカラダが欲するなんて

 

カラダが少し疲れたからこそ

頑張れなくなったからこそ感じたことだよね。

 

 

濃い味付けのものや

添加物の多いものを食べたくないのは

そこにエネルギーを消費してる余裕がないからだよね。

 

 

もともとはこういうものを

欲していたのだねキラキラ