相撲のほか、もうひとつ付けられたあだ名がある。蝉取り名人というやつだ。何をやらせても不器用で飲み込みも悪く、器用だった父親から鬼っ子とまで言われた私だったが、蝉取りだけは負けなかった。虚ろな少年時代を過ごしていた私にとって、蝉取りこそが生きる証のようですらあった。周辺の山はもちろん熟知しており、時間帯や風の強弱、天候、更にどの木のどの辺りにどんな蝉がいるのか、すべて頭の中に入っていた。私が住む横須賀市の中心部には、ニイニイゼミ、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、クマゼミ、ツクツクボウシの6種類の蝉が生息していた。ニイニイゼミとアブラゼミは羽根が茶色味を帯びていたが、ほかは透明できれいだった。鳴き声はいずれも個性豊かで大いに楽しめた。私が最も好きな鳴き声はアブラゼミの声だった。これを他人に話すと殆ど意外な顔をされる。一番嫌いな鳴き声だと言う人も多いのだ。しかし、耳の奥まで響き渡るような深い味わいと、えもいわれぬ高音部の美しさは断然アブラゼミだ。

 

 ニイニイゼミからはじまって、ツクツクボウシで幕を閉じる横須賀だが、実は終に子供時代、一度もこの手で捕まえることが出来なかった蝉がいる。声はすれどもで、他のどの蝉よりも警戒心が強く、素早く、おまけに梢にしか止まらない蝉。希少価値、あるいは採り辛かったという点でいえば、オニヤンマやたまむしクラスだった蝉。クマゼミである。

 三景園の夜、ふとそんな子供時代の思い出が駆け巡った。暑い夜だった。ホテルといっても父親と、年配の女中さんと、それと私の三人しか泊まっていない夜で、既述のとおり、なぜ父親があそこで寝泊まりしていたのかさえ記憶がないのだが、確かにあの1970年の蒸し暑い夏の夜を私は湯河原で過ごしている。

 

 名人と自他共に許す蝉取り芸だったが、クマゼミの捕獲が叶わぬまま大人になってしまったことは大いに心残りだった。その心情は、汚点と言われても甘んじて受けるより仕方ないほど陰鬱なものだった。6種のうちでもクマゼミは最大で、鳴き声も風変わりで大きかった。シュワシュワシュワシュワシュワシュワシュワシュワと、一度聞いたら耳から抜けなくなるような印象力があり、また完全に鳴き止むことがなくて、合間にも地響きのようなうねり声を切らさない独特な風情を誇っていた。

少年時代のある時、1度だけ絶好の捕獲チャンスが訪れたのだが、網の棒の長さが足りなかったためにしくじっている。ニイニイゼミやツクツクボウシは素手でも容易に捕れるほど低い所にいることも多いのだが、先述のようにクマゼミは元々数も少なく、子供時代の感覚からすれば絶望的なほど木の先端にしかいなかった。しかしたとえそうであっても、蝉取りを最たる趣味としていた私が、遮二無二クマゼミを追い求め続けなかったことは奇妙だ。一体どうしてあれほど憧れていたクマゼミを、私は諦めてしまっていたのだろうか。まさかとは思うが、幻のまま崇めようといった大人びた判断が多少あったのか。

 

 横須賀から湯河原へ向かう列車の中、過ぎ去ってゆく夏を早くも感覚していた。詳しくは述べないが、私の暦観では夏は短いことになっている。もっと私らしい言い方をするなら、7月1日から8月20日までの51日間を指して、そこを夏と決めているのだ。夏といえば海だの花火だのと、人々が集まってワイワイやる季節のような印象を持っている人も多いだろうが、私にとっての夏は気だるくて静かだ。独りだということを再認識できるトキなのだ。そこには、何も起こりそうもない予感の見事なまでの的中といった趣があるように思われる。無論その的中は私に哀しみをもたらすものでは有り得ない。それ以上でもそれ以下でもない堕落的な平和が、私の内部を厳然と取り仕切るだけなのだ。それでもあの夏、来たるべき新しい自己への対策に思い余って、父親の出張先へ乗り込んで気分転換を図った私だ。手にしていたのは日記帳だけだった。若い時代の私は、財布は忘れても日記帳だけは肌身離さず持ち歩いており、周囲にそういう人間がいなかったこともあって、異常性格者と自認していた。変人と呼ばれるのは嫌いではなく、他者の理解し難い精神環境こそ、むしろ自慢するべき私だけのものだった。